つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

花と狼(うたつかい・夏号)

まだ夢に浸かった顔をしてきみは春の油を額に受ける

ユートピアユーフォリア・束の間の花 春に咲く花すべてうたかた

でもそれがきみの心臓。歌なんて嘘と知ってるふり、花あかり

無防備にからだごと投げ出せるのは羽根を持たないひとの特権

君の狼を信じる。硝子戸に春の雨粒あまた砕けて

 

一首目は未来の大会に持って行った歌でした。

まもられて、いる?(短歌30首連作・input selector2寄稿作品)

2015年4月~頒布。添嶋譲さん編集によるアンソロジー「input selector2」寄稿作品。小説、エッセイ、詩など各ジャンルの作品が揃った作品集でした。

連作中の詞書については主催・編集担当の添嶋さんのアイデアで表示の仕方を色々工夫して頂き、なるほどこういうやり方もあるのかと目を見開く思いでした。添嶋さん、その節は本当にありがとうございました。

(2016年7月以降は出ないというtweetを拝見したので当blogに再掲することとしました。なお、主催の添嶋さんは現在静岡文学マルシェの主催等をされています)

 

もとは2013年秋~2014年初春にかけて詠んだ連作でした。一部他媒体掲載作品の再録があります。【】はルビになります。

今見ると色々拙く、正直各所に手を入れたくもなるのですが、でもあのとき作ってよかったなとも思います。

 

 

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三日月幻燈(連作24首)


   (――「月」の軌道をごゆつくりお楽しみください。)

  


(三日月の光に首を差し出してただくちづけを待つてたおまへ)

おまへ、三日月、こんな朧なこの夢はいつのおまへの償ひのため 

鳥、おまへ、三日月、クルス、王冠の光は強い(なくしたからね) 

ただおまへ、三日月だけはむかしから好きだつたろと櫛は流れる 

遠ざかるおまへ、三日月 引力は手放すことを知つてるちから

「ねえだけどおまへ、三日月なんてのは光つてるのはみな嘘だから 」

さびしさや悪夢はおまへ、三日月のせいだよと告げひびく寿歌

香木はみな灰となりそらおまへ、三日月がほろほろ(それが海だよ)

満ち欠けの原理も知つていておまへ、三日月だけは満ちないと言ふ

壊れたらそのとき声をあげるだらうおまへ、三日月、シャーレ、カナリア 

眼球は冷たい沙漠まばたきをするたびおまへ、三日月みたい

錆びついた金属線が足首に絡むのだらうおまへ、三日月 

銅みたく光つちやいるがほんたうは死人の顔のおまへ、三日月 

逆光の位置からいつもほんたうを告げくるおまへ、三日月きよら

ないないと子どものやうに呼んでいたおまへ、三日月、千年の嘘 

バスタオルに濡れ髪包まれたらおまへ、三日月なんて見ない約束 

みづかがみ砕き続けてねえおまへ、三日月がいつまでも死なない

(いづれの御時にか)おまへ、三日月、 あとはなんにも残らぬ記録

(そのときはおまへ、三日月、連れだつてそのまま二度と帰らぬだらう)

水銀灯、おまへ、三日月、春の夜 ましろい花がかすかに匂ふ 

いつかおまへ、三日月に虹のかかるころ会へるだらうか傘さしながら 

火はおまへ、三日月はもうゐないひと。さうして長い夜だけがある。

おまへ、三日月、同じ速さで歩く夜 両の手のひらからつぽのまま

おまへ、三日月、その眩しさを塗りつぶす遠い嵐を待ちわびてゐた

 

 

 

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某所で見かけたオブジェと、ちょっとした思い付きで作った連作。

聞こえなくても(みずつき5)

 

青空の下で見ていたひどい夢いつかあなたに降りかかる雨

街灯に夜の草むら香りだし死者の記憶は立ち上がるもの

雨音にこめかみ冷えてお祈りは聞こえなくても続く(けれども)

両手からこぼれるように慣れるだろう負けていること目を伏せること

散る花をアスファルトへと沈ませて無いことにした幾つもの靴

残響に残響ふれる夕暮れの弦楽、やがて静かに水面

 

 

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毎年6月に出る水がテーマの合同短歌集ネットプリント「みずつき」に参加しました。

kohagi-orz.jugem.jp

去年は欠席してしまったので今年は参加できてよかったです。

原稿〆切の翌日にネットプリント公開が開始されてびっくりしました。参加者も毎年増えていると思うのですが……。主催のこはぎさん、ありがとうございました。

はじめてのおつかい・短歌の本を買ってみよう?(サルベージ・4(最終回))

短歌とのお付き合い、または倦怠期について

 

BL短歌は「五七五七七に萌えをぶっこむこと!」(共有結晶 創刊号「はじめに」より)

 

 

短歌を始めたばかりの頃は思い付いたネタを57577の中に収めるだけで精一杯でも、やがてこの世のすべてが57577に落とし込めるような、次から次に作品が出てくる……そんな状態になる人は多いようです。

ところがその後、もう少し上手くなりたいなあと本を読んでみたり、あるいはひたすら短歌を詠んでいく内に頭の中が言葉だらけになって、逆になんだか作りにくくなってきた……というケースも少なからずあるようです。と、他人事のように書きましたが、要するにわたしがそうでした。

また、作品がすぐに作れる調子の良い時、考えても考えても浮かばない調子の悪い時といった「波」も結構あるみたいです。この「調子の悪い時」について、「わたしと短歌が倦怠期」と言っていた人がいて、個人的に結構好きな言いまわしです。倦怠期なら仕方ない。本当は小説や漫画、イラストでも同様の「波」はあるのだと思いますが、短歌は31文字と作品自体のサイズが小さいため、それがすぐに現れやすいのではないかと推測しています。

考えても考えても何も言葉が浮かばないとき、その逆に頭の中が言葉だらけでゲシュタルト崩壊して、いったい何が短歌なのか分からなくなったとき、すぐに効く処方箋はわたしも未だに見付けられていません。もしそんな症状に出くわしたら――無いならもちろんその方が良いですが――、そういう症状は決して珍しいものではないし、治る時には自然と治るものだ、とのんびりぼんやり構えているのが一番いいのかな、と思っています(原稿〆切がある時を除く)。短歌から離れて遊びに行くのも良し、いちばん最初に好きだなと思った誰かの作品や、自作を久し振りに読み返してみるのも良し。

オンオフやジャンルを問わず、何かを創ったことのある方ならきっと賛同して頂けると思うのですが、義務や正しさばかり考えだすと辛くなってしまうのはきっとどんな創作でも同じです。イベント前のTLを見れば〆切に苦しむ人々の呻き声が溢れ返っていますが、それでも次のイベントに出るのは創ること、創られたものを受け取ること、そして受け取ってもらえることはやっぱり楽しいからだ、と実体験からも思います。

 

というわけで最後に、公募作品中心の楽しく読める短歌の本を2冊あげておきます。

 

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短歌同人サークル「猫又」の題詠歌会で出た歌を歌人穂村弘東直子、主催の沢田康彦が評する本。

面白いのは投稿者の多様さ。漫画家(吉野朔実)、主婦、プロレスラー、高校生、翻訳家、女優(本上まなみ)、などなど。この人達一体どんな短歌を読むんだろう……(あ、なんか納得)というのが楽しいです。

時に、え、これ短歌的にありなの!? とこっちがびっくりするような短歌が評者二人に丁寧かつ自由に読み解かれていくのを読みながら、そうだ短歌は何でもありなんだった、こんなの短歌じゃないなんて言われなくていいんだ、自分もこんな風に誰かの作品の良い所を見付けて伝えられたらいいな、と思います。

「短歌があるじゃないか。百万人の短歌入門」「ひとりの夜を短歌と遊ぼう」も、同様の企画による本です。

 

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みんな大好きドラえもん、をテーマに募集された短歌集。原作公認のため、本文中にはドラえもんの漫画がふんだんに引用されており、デザイン的にも見ていて楽しい本です(短歌は一ページ一首、吹き出しの中に入っています)。 

 

以上連載4回、自分の経験を交えつつ長々書きました。

この文章が短歌との蜜月や倦怠期を推進する一助になれば幸いです。