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つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

Homo sum.

2012年11月の三連休に南三陸町のボランティアツアーに行ってきました。

被災地へのボランティアツアーは幾つかあるのですがその多くが長距離バスに乗っていくものです。
初めてのボランティアツアーということもあり、体力的にバス移動は全く自信がなかったので新幹線+バスで行くツアーを選択したのですが、実はこれはかなり珍しいものだったらしいと他の方から聞いて知りました。
(検索すればすぐ分かるので書きますがJTBです)
東京駅からくりこま高原駅へ、その後バスに一時間程乗って南三陸町ボランティアセンターへ。
そこから現地のガイドさんのお話を聞きつつ町を回って後は作業、というスケジュールでした。

南三陸町ボランティアセンター(公民館近くにあります)は多分少し高台にあって、海の方までは少し距離があります。緩く曲がった道を進んでいくと視界がふいに開けて、左手に光る海と、ぽつぽつと浮かぶ船の姿が現れてきます。
震災で、海は四、五十年ほど若返ったとガイドさんは仰ってました。
2012年のワカメの収穫量はここ数十年無かったような量だったので、できれば来年以降もそれが続いてほしいのだと。今稼働している船は、つい最近共同購入されたものなのだそうです。
バスは海の方へどんどん下って船や加工場のある港へ、更に町中へ進んでいきます。
震災で多くの建物や船が使われなくなり市場が無くなったとはいえ、テトラポッドに船や建物、首を降り続ける黄色いユンボなどでごちゃごちゃしていた視界が、海を背にして西に回るとふいに、妙にすっきりします。
家を取り壊したばかりの工事現場、がイメージとしては近いでしょうか。茶色い土の上に枯れ草がひょろひょろ生えていて、その中に家の白い土台が四角い枠を作って浮かび上がっている光景が、しかし進んでも進んでも延々と続いている。それが住宅街なのでした。
住宅街を進んでいくと防災対策庁舎が現れます。恐らく、住民の方にとっては住宅地からも港からも近い便利な場所だったのではないでしょうか。若い女性職員が最後まで避難を呼びかけ、職員が40名近く亡くなったというエピソードと共に写真付きで報道された建物の鉄骨は赤色で、正面入り口の「南三陸町防災対策庁舎」と書かれた黒い立派な看板だけが文字もくっきりと残り、その下に今は大きな祭壇が設けられていました。
防災対策庁舎は町役場の本庁舎と離れの間に建っていたのが木造の本庁舎と離れは津波で流され、真ん中の防災対策庁舎だけが残ったのだそうです。その向こう側に、公立病院。今は使われていないため、もし病気になった場合、病院に通うには車で2、3時間という状況が今後も続くだろうとガイドさんは仰っていました。
センターを見た後は更に西へ進み、老人ホームへ向かいます。高台の、バスで通ってきた住宅街も海も一望できる、海からはかなり離れた場所にある建物ですが、こちらも津波の被害に合った場所です。元はこの場所に高等学校があって、それが移転したので老人ホームを建てたそうです。小・中・高等学校はいずれも川を挟んだ向こう側の、老人ホームより更に上の高台に見えました。
ガイドさんの仮設住宅は小学校の校庭にあるとのことでした。

さて、ボランティアです。いわゆる「瓦礫の撤去作業」です。
参加者は23日が100人、24日が150人程だったようです。ツアーで来た人、個人で来た人の他、兵庫の工業高校の生徒さんや東京の大学生有志、企業の有志グループと思われる方もいらっしゃいました。作業のリーダー役をされている方は南三陸町のお隣、栗原市から来ている方でした。
(余談ですが宿泊したホテルには恐らく社員旅行だろう団体も複数泊まっていたようで、成程なあと思いました)
指定された区域内の、拳の半分サイズのものを拾って7種類に分別し、家の土台を分かるようにする。作業内容を簡単に書くならばこんな感じでしょうか。
瓦礫、と聞いたとき私の場合は震災直後の写真の、崩れた家の建材が積み重なった光景がまず浮かんでいたのですが、1年半経った現在、南三陸町にそうしたものは余り見られません。
(一方でツアー同行者のお話によれば気仙沼市では倒壊したビルや乗り上げた船等はまだかなりそのままなので、同じ被災地と言われていても風景はかなり違うとのことでした。
 が、色々な方からの話を総合すると南三陸町瓦礫撤去の件については被災地の中でも相当遅れている状況のようです。同じツアー参加者で別の町のボランティアに行かれた方で、1年半経ってまだこの状況なのかとびっくりした、と仰ってる方がいらっしゃいました。その一方で市町村によっては機械で一気に撤去作業を行った所、分別がされておらず業者が困っているという話もあるようです。)
一日目には上にも書いた、白い土台がかなりはっきりと浮かび上がりだしている敷地内で作業を行いましたが、二日目はまだ土台が殆ど見えていないエリアを含めた作業を行いました。
恐らく、作業全体の流れとしてはおよそ以下のようになると思われます。
川の土手などの、枯れ草が野方図に生えているような一帯(場所によっては一部家の土台が見えている)がまずあって、最初に背の高い草を一斉に刈り取る。その後土を掘り返し、出てきた石等を7種類に分別し更に掘り返していく。家の土台や建材には比較的すぐに当たるので、その輪郭が明確になるよう、更に掘り返しと分別を進める。最終的には箒とちりとりで掃除できるような土ぼこりと小石だけが残るのでそれらも全て払い落として、家の白い土台が分かるようになって、作業が終わる。撤去というと運搬や分別がメインのようですが、むしろ掘る作業、という印象が強かったです。
当然ですが、作業の中では土の中から色々なものが見付かります。タイルやガラス、陶器の食器の欠片。カセットテープ。縄跳びの紐や子どものおもちゃ。ボールペン。位牌や仏像は見付けたら別に処理すると最初に言われました。

イタリアの、ポンペイ遺跡みたいでしょう。

作業中、バスの中でガイドさんから聞いた言葉の、その意味がふいに分かって呆然としました。
自身の家も流されたというガイドさんがそれを仰ったという、その重さも。工事現場みたいだと私が最初思った、平らで茶色い風景には1年半前まで家があり住む人がいて、なのに今はそれら全てがいわば遺跡となっているのでした。

作業場所のすぐ背後には高台があり、万が一地震が発生したらそこからどんどん上へ逃げるよう言われていました。
高台へ上るための階段のフェンスや手すりは皆、なぎ倒されたように倒れていました。倒れた向きと反対側へ視線をやると木や草が同じ向きにやはり勢い良く倒れています。
水の跡、はあちこちに見られました。町中の廃屋になったマンションの柱や階段、防災センターの赤い鉄骨も、風に舞い上がったような形に曲がり、窓は割れていました。
その一方で、幹の太い木は塩のせいで立ち枯れているものが多くありました。赤い鳥居と恐らくその先にあるだろう参道を囲むように生えていた杉の木は位置の低いものだけが灰色に枯れて、それより上は緑のまま。視線をもっと上にやれば山の木は秋の紅葉の真っ盛り。老人ホームの立ち枯れた木の根元には、恐らくこの一年半で生えたのであろう草が生えていました。
そもそも、作業場に生えている草だってこの1年半で生えたものなのです。
作業場の草は地上に伸びた分は刈られていましたが伸ばされた根は深く、結構な苦戦を強いられました。思えば庭の雑草しかり、草というのはそういえば結構厄介なものなのでした。

休憩は一時間ごとに十五分程、体調の悪い人はそれに加えてそれぞれの判断で休むことになっていました。
ホイッスルが鳴ると休憩です。荷物置き場に戻って飲み物やお菓子を手に取り、現れた家の土台に海の方角に向かって皆で腰掛けながら休んでいました。
かつて2年程住んでいた北陸と比べると太平洋側の冬はやはり、海も空も明るく穏やかな印象です。宿泊したホテルも、フロント奥の喫茶スペースに食堂、階段の東側の壁がガラス張りで、いわゆる「オーシャンビュー」を売りにしているのだろうなと思いました。実際、二日目には食堂から、海から昇る朝日が見えました。
震災の際には、ホテルから海の底が見えたとバスの運転手さんが仰っていました。
高台の老人ホームも恐らく同様に、オーシャンビューを意識した設計だったと思われます。休憩中、遠くに見える海はきらきら光り、数ブロック先の道路をトラックが勢い良く走っていく。
でも本当は、それは私が座っていた位置からは見えなかった筈の景色なのでしょう。

理由があったと、そう思われてなりません。
ガイドさんは後半、そんな言い回しを何度かされていました。
同窓会の会長をされているというその方は、多分人前でお話をされるのは結構得意な方なのでしょう。朝礼の挨拶をする校長先生のような口調でお話ししてくださいました。
自分がこうして生き残ったのはきっとやるべきことがあるのだろう。こうして津波が起きたのは海が人間から、己の持ち物を取り返しにきたのだろう。人は、今のような生き方をしてはいけないと、色々なものを見直さなければいけないと、これはそういうメッセージなのではないか。そう思えてならないと。

ユンボが来たのは一ヶ月半前です。
本当に最近なんですと。2010年のチリ地震津波にも遭遇したというボランティアリーダーの方は作業終了後にそう仰っていました。苛立ったような口調でした。
ずっと、国が復興予算を無駄な所にやっているからだと思っていました。
でもこの前大学の先生が講演で来て、この町の規模で職員が40名近く亡くなられたなら、通常の業務だって回していくことはとても大変で、復興のための申請まで手が回らないでしょうと仰っていました。
だからきっとそういう理由なのだろうと、そう信じたいと、思っていますと。強い口調で仰っていました。

例え頭でそう思っても。きっとこの方は、それを信じることが出来ないのだろうなと思いました。
でもそれは当然のことだろうな、と思いました。

平成21年当時の町の資料を見ると町役場の一般行政職員は約200人、この内亡くなられた40人近くの方はいずれも本庁舎で業務をされていたことから、勝手な推測ですが、恐らく一般行政部門及び教育部門の方ではないかと思われます。
 一般行政部門と教育部門部門数は合計10。平均すれば2/10部門について、引き継ぎ資料も前任者も全て失われたということになります。
 一方で、各部門の人数にはかなりの偏りがあります。一般行政部門で人数の少ない部門から数えていくと、40人に達するまでには実に半分の5部門まで数えることになります。)

仕事の関係で、宮城や福島の方とお話をする事があります。
先方は私の職場ともうずっと長く取引をしているところなのですが、例えば2年前にお願いした仕事を今年またお願いしようとして、それは(震災で)ちょっと簡単には行かないですねえ、と言われることが時折あります。
きっと受話器の向こうで眉をひそめているだろうその声に滲むものと、ガイドさんや、ボランティアリーダーの方の声に滲んでいたものは、口調も何もかも違うけれど、どこか共通するものがある気がします。

自戒を込めて書きますが、1年前よりは今の方が、或いはこれからの方が、被災地への「失言」は増えるのでしょう。
職場で宮城や福島からの電話を受けたり、あるいはこちらから電話するたび、忘れてはいけないと言い聞かせています。けれど一方で上司や同僚と会話する度、忘れていく人はどんどん忘れていくのだなあとも思います。それは、震災半年後くらいからぼんやりと思っていたことですが、何だかますますそうなっていく。
震災直後、一体この状況で先方に電話をしていいのかも分からないまま、上から下まで間抜けな顔でただ指示を待っていた時はどんどん遠くなって、当時だったら言えないような発言が当たり前のように出てきたり。
職場の私の電話も、この文章も、あるいは同じようなものかもしれませんが。
そしてそういうことは今までにも、多分沢山あったのです。

ここには人が住んでいたのだなあと本当に私が実感したのは、ツアーも最後、作業を終えて、以前此処に住んでいたという人の話を聞いた後、その帰り道だったと思います。清掃され土を払われた立派な石畳の道は、もとはお蔵だったのだという話を反芻しながら、私はこうして帰るけれど、これはまだ続くことなのだということがようやく押し寄せてきた気がします。
でももしかしたら今でも、あそこで何を見たのか、私はちゃんと分かっていないのかもしれません。

お話しして下さいね、と。
ガイドさんもボランティアリーダーの方も仰っていました。ここで何を見て何を思ったのか、帰ったら色んな人に話して下さいね。
ああ結局はそこだよなあと思いながら、その一方でぼんやり、このツアーに参加する前のことを思い出していました。東京発・被災地ボランティアツアーと銘打たれたツアーをインターネットで検索していた時、福島行きのツアーを私は中々見付けられなかったのでした。
実は今回の旅行はかなり突発的なもので、なのできっと、探し方が悪いのだろうと思っていました。けれど私より経験豊富なツアー同行者に話を聞いても、福島へのツアーが見付からないという認識は同じでした。
(正確にはJTBさんが出しているのは1件見付けていたのですが、添乗員さんのお話を聞いているとこちらもつい最近出たもののようです)
勿論、ツアーでなければボランティアに行けないものではありません。社会福祉協議会等を通じて個人でコンタクトを取れば、行くことは勿論可能ですし、そうしたという方もいらっしゃいました。が、それはツアーより当然、ハードルが高くなります。
気仙沼市南三陸町でも状況はかなり違うなら、福島の状況は更に全く違うものでしょう。そもそも福島におけるボランティアニーズがどのようなものかすら、私は知りません。福島県内でも色々でしょう。また言うまでもなく、ボランティアだけが被災地支援の方法だということもありません。
(長期的には、いや現在進行形でも、「お金を落としてもらう」ことの方が地元の方にはよっぽど切実なことではないかという気もします。そしてそれは、東京でもできることです)
ですが。
お話しして下さいねと。
そう訴える、もしかしたらその機会すら、奪われている状況も一方で存在するのではないか。

帰りのバスの中で、添乗員さんから他のボランティアツアーのチラシを貰いました。
ツアーはお金が掛かりますから、どんどん参加して下さいとは言えません。でも個人で行くより、ツアーの方がお客様のご負担は確実に少なくなります。
お客様からの参加希望が一定数以上ないと、ツアーは成立させられません。
国であろうと、企業であろうと。およそ何であろうと。
それが欲しいという人の声が一定数以上、きちんとした形で示されなければ、それを進めていくことは出来ないという構造は同じなのかも知れません。


最後に。
ツアー申し込みをしてから出発前まで、内心実は、結構迷っていました。ボランティアツアーとはいうけれど、どうして私は行くのだろう。
震災の日、帰宅難民にはなりかけたけど友人の家に泊めてもらったし家族も無事だった。岩手にも宮城にも福島にも、特別に親しい友人や親戚がいるわけでもない。なのにどうして行くのだろう。
大体、現地の人に話を聞くだなんて。人が死んだ所を見て回るだなんて。
本当はボランティアなんていうのは言い訳で、自分の中には火事場泥棒あるいは野次馬根性のような醜いものがあって、それを誤摩化すためにツアーに参加しているのではないか。
出発当日までそんなことをつらつらと考えていたのですが、行きの電車の中で、ふと思い出した言葉がありました。

Homo sum.humani nihil a me alienum puto.
(私は人間だ。およそ人間に関わることで、私に無縁なことは一つもない)

共和制ローマの劇作家、プビリウス・テレンティウス・アフェルの喜劇の中の台詞だそうですが、私は梨木香歩の小説「村田エフェンディ滞土録」の中で知りました。恐らく同様の方は多いと思います。
そうか、もしかしてこの言葉はこういう時に使うのか。
そう思った途端ちょっとだけ、気持ちが軽くなりました。

もしかしたら梨木さん自身も、そうして使ったことがあったのかもしれません。