バトンではありませんが、メモ代わりに。
2014年の活動記録です。
小説
超短編3本
(イラスト+超短編、声に出して読みたい超短編、アイリッシュパブのほら話)
天使アンソロジー「ハロー、ニュー・ワールド」(来年刊行予定)
人は死ぬと電柱になるアンソロジー「そしてまた夜は」(短歌+α)
詠み人知らず(APH二次)(短歌+α)
短歌
人は死ぬと電柱になるアンソロジー「そしてまた夜は」(短歌連作・12首+α)
共有結晶第三号(短歌連作10首「シザー・ハンズ」、題詠「悪」、笹井宏之さんの短歌解凍小話)
題詠短歌blog2014(100首完走)
みずつき(連作6首「地上へ」)
なりそこない(連作7首「握手の代わりに手を」)
てとてと短歌
blog及びcrunchでの連作5つほど(旧作含む)
詠み人知らず(APH二次)(短歌約135首)
歌会など
さよならsandpit歌会
大阪短歌チョップ・歌のかべ
NHK短歌・1首
うたらば・4首
海彼会歌会(1月)
短歌+αのものはどう整理しようか少し迷いました。小説が少なめなので来年はもう少し頑張りたい感じでしょうか。なお、落選したものは含んでいません。
「詠み人知らず」の短歌数の多さに自分でびっくりしました。そういえばそうだった。
以下、個人的なメモとして。
読書記録を読み返していて気づきましたが、恐らく今年の前半(というより多分2013年から)、私の興味関心は物語を物語る、「かたる」ことについてでした。
私は河合隼雄などの言うところの「物語の力」というのをとても信じているのですが、ここ数年で思ったのは、個人が個人自身を救うために産んだその人の、大げさに言えば人生についての「物語」が、他者にも共有可能な形で提供されることは実は想像以上にまれなことであり、むしろそのままでは共有を阻害する場合も結構多いのではないかということでした(という説明で十分なのかわかりませんが)。
それは阻害するような物語を産んだ個人が悪いという話ではない。世の中の人すべてが創作者ではなく物語ることについて意識的であるとは限らず、加えて人間が常に意味を求め、御伽噺にすら教訓を求める性質を持っているならば、それは不可避の傾向と言えます。
今年読んだ、ジョナサン・サフラン・フォアやリチャード・パワーズは私にとってそうしたことに意識的に見える人達、でした。いとうせいこうやメタフィクション、パラフィクションも私の中でそうしたテーマで繋がっています。すなわち共有は、どのように語ればなされるのかということ。
私はそれを小説・短歌共通のテーマとして考えていたのですが、このテーマはある意味では「物語」の否定でもあり、一方で短歌はそもそも「物語」についての感覚がどうやら私と異なる方が多いようで(主語が大きいですがそこはご容赦ください)、ひとり勝手に疲弊していたのが多分今年の後半でした。
ちなみに上述の共有について、答は今でも出ていません。そもそも「物語」を否定するというのが傲慢なのかもしれない。
ただこの2年ほど、そのあたりについては結構考えたこと、はここにメモしておきます。