まだもう少し猶予がありますが、取り急ぎ。
2015年の活動記録です。
小説
短歌
web文芸誌「片隅」コラボ連載「仮想記憶」(毎月掲載、5首連作×12カ月)
百をめぐる短歌(候補作)
うたらば・ブログパーツ短歌×2、うたらばvol.13
うたつかい 春号、夏号 、秋号(5首連作)
(二次創作短歌)
刀剣伝授(ネットプリントアンソロ企画主催+5首連作)
今夜わたしの部屋に来なさい(付句30首連作)
桜下絵歌巻玉鋼(20首連作・epub)
評論・散文
たとえば、「アイ」について [つきのこども/あぶく。] より | BL短歌 共有結晶BL短歌 共有結晶
(当blog→共有結晶サイトに転載)
遠い水、神義論と対峙する「私」ーー服部真里子『行け広野へと』について - つきのこども/あぶく。
web文芸誌「片隅」エッセイ連載「鏡の箱に手を入れる」(隔月掲載)
二次創作短歌はどう整理しようか去年も迷ったところで、今年は紙媒体が少ないのでさらに迷ったのですが、作品のクオリティを意識したと言っていいのはこのあたりかな、というところで3点あげました。半分以上は短歌というよりは企画としてのカウントです。(とはいえepubはかなり突貫工事だった感が……)
小説が少なめと去年も書いていたのですが今年は更に減って頭を抱えています。その一方でエッセイや評論は書いているので実は散文としてはそれなりの量を書いていたのか、と自分でもちょっとびっくりしました。あと短歌も思ってたより書いてたんだな、と。webの活動だけだとどうも実感が持てないですね……。
題詠blogを完走できなかったのが我ながら歯がゆいです。
なお、投稿作の落選したものは含んでいません。
来年は小説を書きたいです。あと動画と音声編集。短歌はもうちょっと方向性を固めたいんですが基盤をどうするかが目の前の課題です。
以下は去年のメモから。
読み返しながらこれは今も同じだなと思いつつ、「共有」の難しさは今年はよりシリアスに感じていた気がします。
++++
読書記録を読み返していて気づきましたが、恐らく今年の前半(というより多分2013年から)、私の興味関心は物語を物語る、「かたる」ことについてでした。
私は河合隼雄などの言うところの「物語の力」というのをとても信じているのですが、ここ数年で思ったのは、個人が個人自身を救うために産んだその人の、大げさに言えば人生についての「物語」が、他者にも共有可能な形で提供されることは実は想像以上にまれなことであり、むしろそのままでは共有を阻害する場合も結構多いのではないかということでした(という説明で十分なのかわかりませんが)。
それは阻害するような物語を産んだ個人が悪いという話ではない。世の中の人すべてが創作者ではなく物語ることについて意識的であるとは限らず、加えて人間が常に意味を求め、御伽噺にすら教訓を求める性質を持っているならば、それは不可避の傾向と言えます。
今年読んだ、ジョナサン・サフラン・フォアやリチャード・パワーズは私にとってそうしたことに意識的に見える人達、でした。いとうせいこうやメタフィクション、パラフィクションも私の中でそうしたテーマで繋がっています。すなわち共有は、どのように語ればなされるのかということ。
私はそれを小説・短歌共通のテーマとして考えていたのですが、このテーマはある意味では「物語」の否定でもあり、一方で短歌はそもそも「物語」についての感覚がどうやら私と異なる方が多いようで(主語が大きいですがそこはご容赦ください)、ひとり勝手に疲弊していたのが多分今年の後半でした。
ちなみに上述の共有について、答は今でも出ていません。そもそも「物語」を否定するというのが傲慢なのかもしれない。
ただこの2年ほど、そのあたりについては結構考えたこと、はここにメモしておきます。