つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

典型的な承認欲求と自意識の話

 

ずっと「まとも」になりたいと思っていた。

なぜなら自分は「まとも」ではないと思っていたからだ。

 

 

自閉症の子供たちの林間合宿に付き添いとして行ったのは学生時代のことだった。

当時のわたしは週に一回、発達障害の子ども達のための施設にボランティアで通っていた。駅ビルを通り抜けて15分ほど歩いたところにあるその施設は幼稚園のように沢山の子どもの世話をするところではなく、どちらかというと心理アセスメント、発達検査を行うための場所だった。その施設に通う子供たちを対象にした林間合宿があるというので、付き添いとして行くことになったのだった。

わたしが主担当になったのは小学5年生の背の高い女の子だった。合宿に参加する子はその子以外にももちろん沢山いて、木陰の中、なだらかな斜面に作られた木の遊具を怖がる子もいれば喜んで走っていく子もいたし、すいか割りをする横で冷たい渓流に勢いよく飛び込んでいく子もいた。

遊具遊びを介助したり渓流に入る子ども達の後を追うスタッフの姿を横目に見ながら、わたしは自分の注意をどちらにどれだけ向ければいいかわからないまま、担当だと言われた女の子の顔をおずおずと時折覗き込みながら歩いていた。触れられるのが苦手な子だと最初に説明されたこともあり、一体どう接すればいいのか、わたしにはよく分からなかった。

夜には子どもたちと眠る。わたしともう一人の女性ボランティアの眠る部屋には幼稚園くらいの子が4人ほど一緒で、夜にはすっかり雑魚寝状態になった……といっても、子どもをあやすのはもう一人の女性の方が圧倒的に上手で、子ども達は彼女の周りを囲むようにして眠っていたのだけれど。

煙草部屋に、いるんだよ。

そう、同室の彼女に教えてもらったのを覚えている。深夜、息抜きに煙草を吸いに行くと止まっていたホテルの喫煙スペースには保護者の方々が沢山いたという。

同じ施設に通っているとはいえ、保護者の交流が普段どれだけあるのかさえわたしは知らず、ただ深夜、ホテルの片隅で立ち上がるたくさんの煙草の煙と交わされる低い声とをぼんやり想像していた。

 

その頃、わたしは自分は「まとも」な人間ではないと考えていた。

より正確に言うと、「まとも」な人間というのはつねに明るく朗らかで友人も多くいてどんな場にもすぐ馴染み、空気が読めて気が利いて、子どもや老人、障害者にも優しく共感的に接することができる……例えていうなら「うたのお兄さん・お姉さん」のような人間だがわたし自身はそうではない、だから「まとも」ではない、と考えていたのだった。

いやいやどうしてそうなったと言われれば正直わたしも「本当に、どうしてなんでしょうねえ」としか言いようがないのだが。とにかくそう思っていたのだった。

 

わたしは「まとも」ではないから、どうにかして「まとも」にならないと。

わたしは「まとも」だって認めてもらわないと。

でないと。(でないと?)

 

それは典型的な承認欲求、あるいは自意識の話だった。

だって当時のわたしは自分の「まとも」さを他者に認めてもらうことで安心しようとしていたのだ。それはとんでもなく傲慢で酷い行為だというのには薄々勘付きながら、けれどではどうすればここから抜け出せるのか、わからない間も時間は過ぎていくばかりだった。

自閉症の子ども達の林間合宿含め、学生時代幾つかのボランティアに参加したのは、教育実習に行く友人たちの影響もあったと思うが、それをすることでどうにか自分は「まとも」になれないか、それが無理でもせめてこのくらいの経験と知識は持っていなければならないのではないかという、どこまでも自己中心的な動機の方が大きかった。

だから。

合宿の帰り、担当していた子の保護者やスタッフの方のねぎらいの言葉に泣きそうになったのは、わたし自身にとっては大切な記憶だけれど、それはわたしがわたし自身の努力で何かを成したという話ではないのだと思う。

そして多分わたしのような、己の承認欲求や自意識が切っ掛けで教育や福祉の場を覗く人は、決して少なくないのだ。

 

採用面接ではコミュニケーション能力が重視されると言われていたけれどそうしたものを「まとも」ではない自分が持っているとはどうにも思えず、そのせいか就職活動はスムーズにはいかなかった。 

ようやく滑り込んだ職場では配属直後、あなたの前任者は今あなたがいる部署に異動して一週間もしない内に職場に来なくなってしまったのだと説明された。それから3か月後の人事異動により係の業務が分かるのはわたし一人になるのだが、そういったことは今時はよくある話だろう。

配属された課は当時社内で一番大きなプロジェクトを抱えていて、それゆえ能力がある人間が集められているのは勿論、能力があっても人格に難のある社員は異動できないという噂がまことしやかに囁かれていた。そんな場所に放り込まれたわたしは、だからすぐに「使える人間」にならなければいけなかった(と思った)。

 

はい、確認して折り返します。申し訳ありません、すぐ修正します。当方の理解が足りておらず大変申し訳ございませんでした。大丈夫です、お待ちしております。急な依頼で申し訳ありません、何卒よろしくお願いいたします。申し訳ありません、申し訳ありません……。

 

突然怒鳴られたり理不尽な理由で叱られたりすることは無かった。取引先でさえ、あなたの部署は忙しいからと言ってくれることがあった。けれど仕事は日々大量に降ってきて、作業スケジュールは全員が常に正解を出しても多分間に合わなかった。深夜残業は連日、取引先への発注も当然のように酷いスケジュールばかりになる。疲労と睡眠不足で頭が回らなくなっていくわたしの横でわたしより長い残業時間でわたしより高度な業務を同僚たちがこなすのを呆然と見ながら、知識の量も咀嚼も足りないわたしは職場で抜きんでて仕事が出来る部類に入っているとは到底思われず、時折誰かからかけられる感謝の言葉に縋るようにして仕事をしていた。

 

大丈夫、わたしはちゃんと出来ている。

早くどうにかして「使える人間」にならないと。

でないと。(でないと?)

 

異動して一週間もしない内に職場に来なくなった前任者。大量の業務。人事とのやり取りやタイミングから考えるに、恐らくわたしは本来採用されないはずの人間だった。

同僚に意地悪な人は一人もいなかった。

けれど忙しない日々の中、上司や同僚たちの雑談にふと、愚痴が混じり込む。あいつは使えない。こいつは何も分かってない。あの部署はいつも仕事が雑だ、それでこちらが尻拭いをする羽目になる……。

溜息交じりのその言葉は、いつか自分にも向けられるのではないか。仕事のミスが重なったりするたび、そんな想像に怯えた。申し訳ありません申し訳ありません謝っても仕事ができなかったら許されないのは分かってますでも申し訳ありませんと、どこへともなく叫びたくなった。その一方で誰かの仕事にミスを見つけて舌打ちをする己に、少なくとも自分はあの人よりは仕事が出来る人間の筈だ、だからここで働いていけるはずだと言い聞かせている自分に、時折気付いてぎょっとした。

いつかわたしはすり潰される。

その後いくつかの部署を異動し、あれは相当特殊な状況だったのだなと理解はしたものの、その思いが払拭されたことはなかった。

 

わたしは「まとも」ではないから、どうにかして「まとも」にならないと。

わたしは「まとも」だって認めてもらわないと。

早くどうにかして「使える人間」にならないと。

 

でないと。

(でないと、わたしは生きていけない)

 

 

「一体この子たちに生きる意味はあるんだろうかとか、そういうことを言うような人が、案外その後一番熱心にその子たちのケアに取り組んだりするんだよ」

 

冒頭に書いた林間合宿の時、スタッフの方に言われた言葉だ。

一般論のように言われたけれど、「この子たちに生きる意味とかあるんだろうかとか、そういうことを言うような」片鱗をわたしも持っているように見えたから、そう言われたのだろう。当時のわたしとスタッフの方との会話の流れを思い返すたび、そんな気がしてしまう。実際、当時のわたしは多分この言葉にほっとしていた。

教育や対人援助の現場において、援助者が対象とどういう距離感を取るかというのは永遠の課題なのだと思う。誰かのためになりたい、という言葉は美しいようで、相手を支配しようとする傲慢さをはらんでいる(……が、このあたりの自覚やそれをどれだけ危ういものと認識しているかについては個人差もあるし、正直、業界によっても差がある気もする)。ボランティアや募金などのいわゆる慈善活動、教育・福祉の場に近づくことについて、それが理由で躊躇する人もいるし、わたしの中にもそうした気持ちは存在する。

相手を支配しようとする傲慢さをゼロにしなければならないというよりは、そういう部分が自分の中にあるということを自覚しなければならない、ということなのだと思う。想像と違う、思い通りにならない場面にぶち当たって初めて、相手を支配しようとしていた自分に気付くことがある。

 

自閉症の症状のひとつに、自傷行為がある。わたしが施設にボランティアに通っていた時、頭を叩く子がいた。幼稚園に通うくらいの年齢の子で、スタッフの指示がわからなかったりやりたいことが上手くできない時などに両こぶしで自分の頭を叩く。更にパニックすると机に頭を打ち付けたり、こちらを殴ってくることもあった。

淡々と対応しなさい、とスタッフからは言われたように思う。自分や周りの人を叩いたらみんなが言うことを聞いてくれると学習させてはいけない。誰かを叩くことは不適切な行為であるとこの子は学ばなければいけない。成長して体が大きくなった時にもそうした学びが残っていたら、それはこの子自身にとって良くない。だから淡々と、それは不適切であることを伝えること。

でも、頭叩いてるの見てると辛いよね。

そう言われて、ああ、辛いと思っていいのかと目から鱗が落ちるような思いだったのを覚えている。当時わたしの周囲にはオーバードーズリストカットをする人もいて、でも一番つらいのは本人だからそんなことを思ってはいけないのだと、ずっとそう思っていた。

他者との過剰な同一化により動けなくなっては意味がない。けれど自分には理解できないと切り捨てても何も変わらない。淡々と必要な対応を行うには目の前のこの子が自傷行為をするのは辛いという感情と、でもこの子に本当に必要なのは何かという知識や思考、両方が必要になってくる。そしてできれば、自分より知識と経験を有する誰かの助言も。

同一化と切り捨てと。正解のないその間の距離をいつまでも測り続けるのが、誰かのためにという行為なのだと思う。考えるよりも先に腕を伸ばすことが出来てそれが常に適切である人もきっとどこかには存在するだろうけれどわたしはそうでなくて、だから多分今も、そうしたことを上手にできない。

 

相模原の事件が起きた後しばらくしてから、かつて施設で言われた言葉を何度か思い出した。

事件の報道を見るのが辛いこともあり、加害者についてわたしは多くを知らない。例えば彼が議員に送ったという手紙は読んでいないし、家族構成や病歴なども詳細は把握していない。真相はこれから解明されていくのだろうし、合わせて制度の問題なども指摘されていくだろう。ただ彼がかつて教員志望で、それから福祉の業界に入ったということはわたしにとって結構ショックなのだと思う。

障害者なんて生きていても、という彼の言葉について、多くの人が批判を寄せている。ナチスの優生思想との関連について言及する人もいる。彼の主張が正しいとはもちろん全く思わないし、批判されて当然の内容だと思う。けれど彼の思想をありえない信じられない、なんて酷いことをという声にもまた、どこかで怯えている自分がいる。今ははっきり、皆でそう言い切らなければならない時なのだと思いつつ、その権利は自分にあるだろうかと考えてしまう。

いくら自分がボランティアに行ったと言ってもそれは学生時代の限られた分野の限られた期間の話で、その後のわたしの生活において障害者との接触は正直皆無と言っていい。初めて施設にボランティアに行った日の帰り道、明るく清潔な駅ビルの中を歩きながら、まるで別世界だとくらくらしたのを覚えているけれど、そんな駅ビルみたいな世界の中でわたしはずっと、疲れて寝不足になりながら誰かの仕事に舌打ちをし、あいつよりは自分の方がましだとか、そんなことを考えて生きてきた。

情けない話だけれど、加害者と違って自分は優生思想をいつでも否定できる、常に他者に寄り添うことができるとわたしには言い切れない。そうではない自分を、嫌というほど知っているからだ。

 

どんな人にもその人らしく生きる権利があります。

誰かの命を不要だと言う権利は誰にもありません。

たとえ障害があっても、なくても、それは変わりません。

 

こんな当たり前のことを言葉にして皆で確認しなければならないこと、にもかかわらずテレビなどからはそうした声が当初思っていた以上に聞こえてこないこと、その両方に愕然としつつ、しかしわたしは同じ言葉をわたし自身に向けて言ってきただろうかと、そうして初めて気が付く。

例え友人が少なくても、場の空気が読めず、愛想がよくなくても。面接で上手く受け答えが出来ず、就職活動が上手くいかなくても。仕事ができなくても、徹夜で働くことが出来なくても。誰かと話を合わせることや飲み会などの集まりが苦痛でも、平日職場に行くだけでへとへとになって、休日はだらだらして過ごすばかりでも。

誰かに自分の意見や思いを否定されても。誰にも、保証も明言も何もされなくても。

それでも「わたしは」、このまま生きていていいのだと、生きることを誰にも否定はできないのだと。わたしはわたしに確信をもって告げていただろうか。

 

どんな人にもその人らしく生きる権利があります。

 

この社会で今は健常者と呼ばれているわたしもあなたもそれは変わらないし、わたしやあなたと同様に、今はこの社会で障害者と呼ばれている人(あるいはこれを読んでいるあなたもそうだろうか)も、またそうなのだ。

 

 

 

林間合宿の帰り道、スタッフの人と話をした。本当は2回目なんです、とわたしは言った。自閉症の子ども達の林間合宿に付き添いをしたことは前にもあったんです、でもそのときはとても辛かったんです。

最初に行ったその合宿は暴れる子も自傷行為をする子も多かったのでスタッフは常に駆け回り、怒鳴り声を上げていた。男性スタッフ複数人で子どもを取り押さえる場面は一日に何度もあったし、殴るスタッフもいた。今にしても思えばスタッフも設備も、何もかもが足りていなかった。

帰りの電車は担当の子と私、スタッフと子どもの保護者とが向かい合わせに座っていた。列車が動き出して暫くしたころ、担当の子がふいに声を上げはじめた。

しずかにね。

身を乗り出して囁くと彼女は笑ってわたしの腕に手を巻きつけた。おお。子どもの様子に斜め前の父親が感心したように声を上げた。あなたのことが好きなんですね。短期間なのにねえ。言って頷き合う周囲にわたしは何も言えなかった。ありがとうございますとその場にいた全員に言いたかったけれど、それもあまりにも自己中心的な話だった。

わたしはただ、その子の横でずっとおどおどしていただけだった。

 

やがて電車を降りる時間が近づいて来る。

ねえ、今回の合宿は辛くなかった? 

横からのひそひそ声に何度もうなずくわたしに、スタッフの方はにやりと笑った。そいつは良かった。安心した。

機会があったら、またおいで。

 

 

追記:

8/6、「津久井やまゆり園」で亡くなった方たちの追悼集会を開催した当事者研究Lab.では内外から寄せられた追悼メッセージを掲載予定とのことです。

(8/8現在は未掲載。

 8/16追記:寄せられた追悼メッセージは少しずつ掲載されているようで、16日現在は国内からのメッセージに加え海外からのメッセージ(その1)を掲載しています。徐々に増えていくのだと思います)