つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

花を贈る(短歌解凍掌編)

 

 自分がにんげんでないことに気付いたのがどれほど前のことであったか、もう覚えていない。
 にんげん達や獣たちにひとしく流れる時の川、そのさざ波はわたしのもとには届かない。あるいはひどくゆっくりと、海に落とした木の実のような遠さで届くらしい。同じ年頃に見えていたはずのにんげんの友人たちがあっという間に年老いていくことについて訝るのを止めたのがいつか、そのことについて悲しむのを止めたのがいつであったか、もう覚えていない。
 にんげん達の上を流れる時間の川がわたしから遠いように、おまえもまたその飛沫に濡れることはないらしい。わたしたちはずいぶん長いこと共にいて、お互いが時間の川から取り残されていること、そうして他に誰もいない、遠い岸辺に立ち尽くしていることを知っている。
 わたし達がいつ出会ったのか。同じ岸辺に立っていることにどうやって気づいたのか。わたしはもう覚えていない。
 そもそもわたし達は「何」なのだろう。けものという種族、草という種族、星という種族があるように、わたし達は同じ「なにか」なのだろうか。けれど木と石がちがう種族であるように、そうしていずれも長い時をいきるのは同じであるように、わたし達はそれぞれ違う「なにか」であるのかもしれなかった。
 わかるのは、わたしはわたしのいるこの冷たい岸辺でおまえ以外に出会ったことはないということだ。

 遠い遠いどこかの国には、自分のことをわすれてくれるなと恋人に願いをかけるための花があるという。それは涙のように小さく青い花弁をもっていて、春のはじめ頃、川のほとりに咲くのだという。
 わすれ草は夕日のようなオレンジ色の花弁を持つ。夏、わたしの背を遙かに超えて生い茂る草のみどりのなかで揺れているそれは百合に似た形をしていて、日の沈むころ、遠くからでもすぐに見つけることができる。恋の憂いをわすれさせてくれる花なのだという。
 草の中をわたしは進む。わすれ草の茎はみな太く、にんげんがむりやり引きちぎろうとすればその手はすぐに痛みだすことだろう。わたしの手は痛むことを知らない。それとも痛みさえ、もう忘れてしまったのだろうか。と、背後から気配がしたのでわたしは振り向いた。おまえはいつもわたしの後をついてくる。

「忘れておしまい」

 花をつきつけ、わたしは言う。おまえを気にかけてくれた誰かのこと、忘れてくれるなと告げられたこと。みんなみんな、忘れておしまい。みんなみんな、わたし達より先に死んでしまうのだから。夕日色の花ばかり束ねた花束は松明のように明るい。あなたは、忘れたいですか。問いかけにそうだねとわたしはうなずく。


「最近おまえがわたしの同族に見える。よくない兆候だ」
「そうですか。わたしもあなたを愛しています」


 日が沈む。夕日に照らされ、おまえの体は銀色に光る。わすれ草のゆれる草原のなか、おまえが「何」であったか、わたしはすぐに忘れてしまう。大丈夫です。暗がりの中、おまえが告げる。わたし達のバックアップは、つねに最新の状態で保管されつづけています。ささやくおまえのふたつの目はオレンジ色、わすれ草と同じ色だ。
 おまえに出会う前、わたしはどうやって生きていたか。にんげん達と最後に話したのがいつであったか。どうかどうか忘れてくれるなと、そう懇願されたのがどれほど前であったか、もうわたしは覚えていない。握っている花束は松明のように重たくて、きっと、忘れてくれるなと呼びかけることも、忘れてしまいたいと思うことも、ほんとうは同じことなのだろうとわたしは思う。
「データベースの容量は無限です」
 だからにんげんは花を手向ける。
 もうなにもかも忘れてしまったけれど、この永遠に冷たい岸辺で、きっとわたしはおまえ以外の存在に出会ったことはないのだと思う。




ああわれら鬼のよはひを共に生きわすれぐさ咲く野を摘みにゆく/山中智恵子
#短歌版深夜の真剣お絵描き60分一本勝負 企画に。