つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

美とエゴとの往復運動の間に――鷺沢朱理『ラプソディーとセレナーデ』感想

 

「さやうでございまする。私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。よし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか。」

                          芥川龍之介地獄変』 より

 

この文章の概要:

 鷺沢朱理の歌集『ラプソディーとセレナーデ』は古今東西の様々な題材をモチーフにしつつ、美とそれに執着する創作者という主題をどこまでも展開させていった歌集ではないか。

 

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鷺沢朱理の歌集『ラプソディーとセレナーデ』は六楽章(章ではない)*1から構成された歌集だ。目次を見ると各楽章にはModerato grazioso, ma non troppo、Larghetto, tempo rubato……、とテンポ指定まで記載されている。本文の楽章表紙も同様だ。

第一楽章最初の連作、つまり巻頭作は『四曲一隻屏風「濃姫」』。冒頭四首を引いてみる。

 

(※以下、歌の引用に際しては歌集の掲載ページ及び収録連作を記載する。またルビについては【】内表記で対応する)

 

 「国宝の玻璃割る美学」と追放の修復師われの末路笑ふか

 

 十余年美濃の御寺【みてら】の奥の院に闇を食ひつつ絵をなほしをり

 

 信長の美濃攻めゐたる屏風より銀箔【はく】はがしみれば姫うかびたり

  

 おさへきれずある夜化粧【けは】ひて濃姫の屏風と語れり姫は語れり

                                                                  (P13,14『四曲一隻屏風「濃姫」』)

 

四首目と五首目の間には小題として壱扇「輿入」と書かれている。小題は弐扇「信長殿」、参扇「父と兄」と続き、四扇「稲葉山炎上」で終わる。

屏風の折れ曲がる平面、つまり「扇」ひとつひとつに小題がつき、ひとつの「扇」は三~八首で構成される。つまりこの連作全体がひとつの屏風であり、プロローグである冒頭四首以降は、(姫の姿の浮かび上がった)屏風の扇それぞれに描かれた濃姫の人生ーー輿入れ、信長との出会い、実の父と兄による合戦、そして戦のあとのことーーが詠まれ(描かれ)、最後に屏風絵を描く絵師の前に姫その人が現れる、という構成になっている。

この『四曲一隻屏風「濃姫」』を筆頭に第一楽章は、屏風に描かれた世界をモチーフにした連作が続く。四番目の連作『青年二人同衾図屏風』から引いてみる。

 

 肉を超えて描き出だすべき粗土【あらつち】の愛激しきに凍てて素描は

 

 描く筆に友をかさねて夜ごと夜ごと仕事場の隅に膠は乾く 

                      (P26,27『青年二人同衾図屏風』)

 

連作『青年二人同衾図屏風』に登場する絵師には夜毎夢に見る美しい肉体を持った友人がおり、彼は友人に重ねた青年を屏風の中に描く。タイトルにこそ『同衾』とあるが、同衾シーンが屏風に描かれたのかは連作の歌からは分からず(歌に詠まれるのは友人の肉体の美しさで、それに触れる者の登場は詠まれていないように思う。あるいは描くことそれ自体が……ということだろうか)、屏風は人知れずどこかに隠されて終わる。

美しい友人の肉体、それに引き換え貧相な己の体。友と呼ぶことさえ苦しく思う片思い、夜に見る夢、空の星。いわゆるJUNE的な《美》の世界として読める連作だと思う。

 

ところでいわゆるBLにおいてはしばしば、感情移入の方向が問題になる。BL読者・制作者の多くが、BLの主な登場人物である男性ではなく女性であることから、BLを一体どう読み書きしているのか、女性たちはいわゆる「受」に感情移入しているのではないか、実態はどうなのだ……という話である。

この手の問い掛けについては、我々BL読者(及び作者)はキャラクター達を取り巻く壁や天井や近くに置いてある観葉植物の鉢になることを望んでいるのだ、というのが「定番」の回答だが*2、この観点から見たとき、JUNE的な《美》の世界を描く『青年二人同衾図屏風』は「無粋」な連作といえなくもない。なぜならこの連作は屏風の中の永遠だけではなく屏風の外にいる絵の描き手、本来なら壁や天井になっているべき存在をも歌の中に描写してるからだ。

《美》だけを詠みたいならば、それが屏風の中だけの存在であるとタイトルでのみ示し、歌においては屏風の中の世界だけを描いても(詠んでも)良いはずだ。けれど第一楽章の連作は最後に掲載された『六曲一双屏風「六条御息所物語」』をのぞいた全てに「描き手や修復師」が存在する。筆先の描写だけのときもあれば意志を持つ人物が存在するときもあるが、これは屏風の絵だ、つくりものだ、つまり描いた誰かがいるのだ、ということは連作の中で繰り返し詠まれる。

 

 おさへきれずある夜化粧【けは】ひて濃姫の屏風と語れり姫は語れり 

                    (p14『四曲一隻屏風「濃姫」』)

 

 磨【す】る墨や筆のはしりの先に顕【た】て絵絹白きに銀の霊峰

                    (p19『軸装三幅対「雪豹」』)

 

 みづの庭にひかりと遊【あそ】ぶ烏賊【いか】のむれ水晶末のふでにて描く

                    (p23『海底洛中洛外図屏風』)

 

 焼かれ尽くす星の白さを思ひゐつ虚無より描き尽くすほかなし 

                    (p28 『青年二人同衾図屏風」)

 

 絵師われの究【さが】す最期の筆先に応へよ『源氏』ひかり立たせて

 

 この眼見えぬともまだ闇が見ゆ朔のごと光なくとも描き尽くさな

                   (p30、p33 『四曲一双屏風「夢葵」』)

 

第一楽章の「描き手や修復師」たちの中で最も個性が強烈なのが巻頭作『四曲一隻屏風「濃姫」』の修復師だろう。連作冒頭に現れる性別不詳の修復師は化粧をしなければ《美》と対話することさえ叶わない*3。この連作が巻頭作となっているのは、この歌集がいわゆる境涯詠を収めたものばかり「ではない」ということを読者に示すことに最も適している(修復師の個性の強さ、小題の存在)こと、この連作が賞の候補になったことなども関係していると思われるが、この楽章、ひいては歌集全体の重要なテーマをもっとも体現しているのがこの連作の修復師だからではないかと思う。

《美》を望みながらも決してそこには到達しえない「描き手や修復師」、そのエゴや葛藤・破滅は、《美》そのものと並ぶ、この歌集の重要なモチーフなのだ。

 

現代において失われた古典的な美意識の復権ということも鷺沢の中にあるのは明白であって、……(後略)

 

 

上記は歌集帯にも引かれている大塚寅彦による歌集解説の一節だが、ここでいう美意識とは何だろう。引用文前段からすると古今集新古今集で詠まれてきた、言葉のみによって構築される「花鳥風月」の世界の美しさを指していると思われる。

この解説や、作者あとがきの「短歌に《美》を復権しなければならない。」という一節を踏まえれば、この歌集のテーマは《美》ないしは《美意識》としてよいだろう。実際この歌集の、屏風を始めとする古今東西の美しい工芸品や物語をモチーフにした連作を読んでいると、まるで《美》を収集した場所、美術館の展示を見せられているようでもある。

けれど私が第一楽章の中で最も印象に残ったのは《美》そのものというよりは、むしろその周辺に現れる「描き手や修復師」、すなわち《美》を希求しながらも決してそこに辿り着けない《美》への奉仕者達の存在感だった。そのためだろうか、第二楽章で現代日本が舞台の連作が展開されたときも、強い違和感は覚えなかった。

恐らくこれは第一楽章の連作『海底洛中洛外図屏風』が伏線として機能している(第一楽章は六つの連作で構成され、「海底~」は三つめの連作)。この連作は海底、竜宮城を描く絵師とその描く世界が詠まれているが、連作後半から現代日本の社会問題がちらちらと顔を出してくる。

 

 青金の竜宮門のたきだしに職無き浪人鯵のむれが見ゆ

 

 トパーズの海の裏路に恫喝し去りて血を拭く天狗剥【てんぐはぎ】一人

                   (p23、p25『海底洛中洛外図屏風』)

 

ワーキング・プア、ハラスメント、それによる心の病。『海底洛中洛外図屏風』において屏風の描き手の心情は描写されないが、読者としては美しい竜宮城の景色にそうしたものをいつのまにか描きこんでしまう、現代日本を生きる描き手の状況を想ってしまう。それは第二楽章においては(歌集作者により近い存在、すなわち歌を詠む人、《美》を作り出そうとする人物として読者に読まれるであろう)連作作中主体の経験としてより直截に描かれることになる。

 

第二楽章は四つの連作から成る。職場の環境が悪く神経を病んだ現代日本の作中主体とその家族……特に祖父母との交流、がそれぞれクローズアップされる時期や個所は微妙に異なるものの、くりかえし描かれる。

二つ目、三つ目の連作は植物(竹、桜)がモチーフとして登場するが、いずれも和歌や日本の工芸品などに現れる伝統的なモチーフであることは言うまでもない。

現代日本を舞台にし、各連作の作中主体ニアリーイコール連作作成者として読みやすい構成の第二楽章だが、個人的には読み進むほどに作り込まれていく印象があった。確かにここで詠まれている内容は確かに第一楽章のような意味での「虚構」ではないだろう。しかしある特定の期間を視点やモチーフを変え詠み直し(連作間の時間の経過はあってもあまり明確ではないように思う)続ける第二楽章の取組は、私にはまるで己の望む未来を得るために何度も時間を遡る、ループSFの主人公の取組に見えた。くりかえしくりかえし歌という定型に詠まれ、モチーフの力を利用しながら、作中主体の経験は竹や桜などの登場する《美》の世界に取り込まれていく。

第二楽章最後の連作『鳶ヶ崎の二人』は、作中主体の介護する祖父が過去には書を嗜んでいたことが示される。作中主体は祖父に代わって書の道を継ごうと墨を磨り書を書くが、やがて祖父は「トメのごとくに息終へて(p66掲載の歌より。なお原文では「トメ」に傍点)」他界する……という展開だが、前の連作のモチーフとなっていた竹、桜、いずれもが詠みこまれていること、更にこうした展開全体が第一楽章の「描き手や修復師」達に連なる物語としても読むことが可能であるという意味で、『鳶ヶ崎の二人』、ひいては第二楽章全体が《美》の世界への合流、回収の物語としても読めるように思う。 

 

続く第三楽章の巻頭作は『長谷川等伯―没後四百年に寄せて―』である。第一楽章の屏風の世界が再び戻ってくるわけだが、しかしそこにいるのは第一楽章に登場した名も来歴も分からぬ絵師たちではなく、歴史上実在した長谷川等伯という具体の名を持った存在だ。

第三楽章から第五章までの連作は長谷川等伯を始め実在の人物(あるいは実在する工芸品や伝説、物語等)が多く登場し、連作タイトルに加え詞書によって内容が補足されているものも多い。「この連作の作中主体はこの歌集を編んだ人物とは別人であり、異なった来歴を持つ独立した存在である」ということがより強調されているといえるだろう。

第三楽章から第五章までの各連作の作中主体の来歴は非常にバラエティに富んでいるため、ひとつに纏めてしまうのはもったいないのだが*4、連作で展開される物語の主な共通項を見ていくと、第三楽章から第五章はやはり第一楽章の主題であった《美》と「描き手や修復師」の物語のバリエーション、または展開部に見える*5

各連作において《美》は常に圧倒的なものとして存在し、「描き手や修復師」はそこに決して到達出来ない。《美》は人を救わない。そう理解しながら、「描き手や修復師」達はそれでも《美》から離れられず、一生を賭けて手を伸ばさずにはいられない*6

 

第三楽章から第五章までの連作の作中主体は、歌集に掲載されている歌を詠む人物とは別人であり、それぞれに異なった来歴を持つ独立した存在である。

このためか各連作の特に第一首目の、今が何時か、作中主体「われ」がどのような来歴を持つ者か、読者にわかりやすく示すような内容の歌が印象に残る。

 

 三十年は能登七尾にて絵仏師の細々とせる筆にて食ふに

                (p71、『長谷川等伯―没後四百年に寄せて―』)

 

 今はむかし円山応挙の弟子筋にひとり破門の女【をみな】なるわれ

                (p96『破門―円山応挙画《藤花図屏風》奇談―』)

 

 世は明治二年の真冬、雪もなくここ「酔雪楼」を継ぐ者もなし

                (p99『料亭』「酔雪楼」の料理人』)

 

 かつてわれ画壇派閥を作り来しにいくつ否定に弟子死なしめつ

               (p104『梅樹四季十六面図襖絵』)

 

 人にあらぬわがあさましの身とは知れ神よこの身に契り許すか 

           (p120『ラフカディオ・ハーンの手段による変奏曲

                        「青柳のはなし」青柳』)

 

 業平の君と手をとり逃げ来【こ】していかでこの恋遂げられんかな 

              (p164『つゆ姫の物語―『伊勢物語』第六段より―』)

 

小説の冒頭文にもできそうなこれらの歌を見ていると、私は(妙な例えかもしれないが)ジュブナイル小説や子ども向けのアニメの冒頭を思い出す。「わたし/おれの名前は○○、××学校に通う×年生……」といった主人公の自己紹介から始まる物語に、誰しも一度は触れたことがあるのではないか。子ども向けのアニメの場合は毎回こうしたモノローグが番組冒頭に流れる。なぜか。こうした自己紹介には視聴者が物語に入るために必要な情報ーー主人公の名前、年齢、職業、その他設定、目指していること、性格、友人関係などーーがわかりやすく盛り込まれており、これによって初回から見ていない視聴者にも物語の導入を容易にしているのだ。上に挙げた各連作の第一首目は恐らくこうした自己紹介と同様に、これから展開される連作の物語世界に入るために必要な情報を読者に端的に示している。

私はこのようなものです。私はこのようなものです。他の誰とも違う存在です。

各連作の作中主体がこのように強く主張するため第三~五楽章においては、例えば第一楽章のように設定は異なっても「修復師・絵師」という共通の視点から各連作を読み進めたり、第二楽章のように作中主体の視点ニアリーイコール歌集製作者の視点で通して読み進めることが難しく、連作ごとに頭を切り替えながら読むことになる。とはいえ、この辺りの切り替えにどの程度負担を感じるかについては読者によってもかなり違うだろう。

 

六楽章構成、収録歌も多い部類に入るであろうこと。各連作のモチーフがほぼ全て異なること。いずれの連作も明確なストーリーがあり作中主体の個性が強いこと。その一方で歌の定型感覚は強く時に本歌取りなどの「遊び」も入れてくるため、歌の中に「意味」が充満していること。

恐らくこの歌集の作者は書きたいことが沢山あって、己の世界観を構築し、読者に手渡すには一首では到底足りないと判断している。だから短歌連作という手法を使うし、作中主体についての情報は複数の歌を使って徐々に明かしていくのではなく、冒頭一首で必要十分な内容が示される。とはいえ、一首で作中主体に関する必要な情報をわかりやすく、歌としての体裁を維持しながら示すことはそう簡単な作業ではない。そして連作でストーリーを展開する以上、読者に対する情報の提示は作中主体に関する情報に限られない。この歌集では膨大な情報を読者に伝えるための情報の整理、構築(、そしてそれらの作業を読者に見せないための演技)に、歌単位でも連作単位でも多くのエネルギーが割かれている。これは分かる人にだけ分かればいいといった態度とは真逆の態度と言えるだろう。

《美》の復権を願うこの歌集の作者は恐らく自分の書きたいこと・愛しているものについて、読者含む、自分以外の人間はそこまで興味も知識もないだろうということも分かっている。だから作品の中で可能な限りその対策を打つ。ある意味とてもサービス精神にあふれているのだ。

意地悪な言い方をすれば、この歌集の作者は読者の読みから作品(特に歌一首単位での)が膨らむことなど恐らく期待していないだろう。読者はただ、構築された世界を受け止めればよい。受け止めたその世界は既にずっしりと重たいはずだ。

そしてそうした作者の姿勢は第一楽章から《美》そのものと並んで大きな主題であった「描き手や修復師」の、すべてを「描き尽く」そうとする姿勢そのものだ。

 

最終章である第六楽章は二つの連作から成る。歌集タイトルでもある「ラプソディーとセレナーデ」「カリフラワーを夢見て、脳は」のふたつだ。「ラプソディーとセレナーデ」の舞台は不明だが「カリフラワーを~」は舞台が現代日本なので、二楽章同様、いずれも舞台は現代日本、各連作の作中主体ニアリーイコール連作の作者の楽章と解釈しても問題ないだろう。第三~五楽章の目まぐるしさと比較すると読みやすいが、これで一楽章とされると少々混乱する、というか若干肩透かしをくう感もある。

第三~五楽章をあるひとつのモチーフを使った怒涛の展開部と考えたとき、第六楽章、特に連作「ラプソディーとセレナーデ」は夢から醒めた後のような静けさがある。独立した楽章というよりは曲の末尾、展開部の盛り上がりの響きから一転、間をおいてそっと置かれた和音のような印象だ。

続く「カリフラワーを~」は鏡写しのような連作だ。農作業中に見る美しい春の景色が半ばから、過去を投影した陰惨な景色に暗転していく。

 

これはまったく根拠のない個人の勝手な想像になるが、本当は「ラプソディーとセレナーデ」は第一~第五楽章までのモチーフに属する作品なのではないか、という気もする。この連作に明確な人間関係は描かれていないが、連作からうっすら見える、曲を弾く人とその曲を捧げたい人という関係―おそらくはもう会えない、かつて己の《美》を捧げたい人がいたこと―は、第一~第五楽章の内容に通じるものがる気がするのだ。既に読み終えた第五楽章までに源氏物語伊勢物語をモチーフにした連作があることからも分かるように、この歌集の中で届かない《美》への執着は叶わない恋に似ている。

だとすればこの楽章はまとまった楽章というよりはひとつの曲の終わりとエピローグ、あるいはもうひとつの曲の始まりの両方が収められているのかもしれない。

 

《美》はどこからくるのだろう。

この文章冒頭に引いた芥川龍之介の小説『地獄変』は絵仏師の男の物語だ。絵を描くということに異様な執念を燃やすこの男は、この目で見たことがないものは描きようがないと、地獄変の屏風絵を描くよう命じた大殿に主張する。小説のクライマックス、最愛の娘が牛車に押し込められ生きながら燃やされても、男は爛々と目を光らせながら目の前の光景を凝視し続ける。

この歌集に登場する絵師や修復師達が求める、どんなに手を伸ばしても届かない《美》もまた、天上から突如降ってくるものではなく目の前の、視点を変えれば陰惨にさえ見えることもあるこの世界にあるのだろう。この世ならぬ獣である一角獣や麒麟を描くには現実に存在する馬や鳥の解剖学的知識を知る必要があるように。《美》は遠い幻ではなく目の前の景色を凝視した更にその先、現実と《美》との往復運動の間にある。

 

 

参考(他の方の歌集評)

第240回 鷺沢朱理『ラプソディーとセレナーデ』 – 橄欖追放

『ラプソディーとセレナーデ』を読む : うたぐらし

*1:ちなみに「六楽章」でweb検索するとマーラー交響曲第三番がヒットする。ただし本書各楽章のテンポ指定はマーラーのそれとは一致しない。

*2:とはいえそのような回答を「せざるを得ない」のではないか、という議論もある気がするがここでは詳しく述べない。

*3:この化粧する修復師という設定には作者鷺沢の在籍する中部短歌会にかつて所属していた歌人・春日井健の影響も感じる。 見られつつ見つつ化粧ひて少年は男盛りの役に入りゆく / 春日井建『友の書』 など。

*4:個人的な好みとしては『正倉院物語』が、表記からも示される宝物の絢爛さとそれを取り巻く人間の対比など、手塚治虫火の鳥』乱世編の清盛の最期の描写を彷彿とさせて面白かった。

*5:だからこの歌集について、現代日本を舞台にした第二,六楽章は落とし《美》の世界のみを追求すべきという意見は、正確には、「歌集には第三楽章から五楽章のみ収録し、第一楽章の作品はすべて落とす、あるいは構成を見直して収録すべきだ」というのが主張としては理が通っているのではないか。

*6:ところで花鳥風月の世界が和歌の世界における「美の様式」であるように、物語にも「様式」や「型」がある。古典文芸や歌舞伎などの世界では「型」そのもののような物語も多い。この歌集の連作はいずれも物語性が強いが、特に現代日本を舞台としない楽章、つまり第一、第三、第四、第五楽章において描かれる物語の多くは、「美に手を伸ばした結果破滅する人間、人間を破滅させても何も変わらぬ美の残酷さ」だろう(これは例えば神話のイカロス、あるいはこの文章冒頭に引いた「地獄変」などにも通底する「型」だ)。連作モチーフで古今東西の題材を取り上げている作者だが、この意味でも作者の「美意識」は和歌の世界のみに留まるものではないと思われる。古今和歌集の花鳥風月の美意識と《美》を求める創作者の自意識・葛藤とは相反するものではないか。