つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

春の夜の幻、あるいは与謝野晶子の短歌に関する個人的な妄想について

 

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき  / 与謝野晶子「みだれ髪」

 

 

 

夜の京都を歩いたことはあるだろうか。
京都、それも八坂神社のある四条通近辺は古都・京都としての雰囲気を壊さないような工夫があちこちに施されている。ファーストフード店の看板はみな彩度が落とされているし、八坂神社西楼門正面のローソンの道に面したガラス窓には犬矢来が置かれ、一部が格子になっていた。過去形なのはこのローソンが2017年に閉店したからだが、跡地に建てられたツルハドラッグもローソン同様、京町家風の演出を施した店舗になっている。
夕暮れ時の四条大橋を渡っていると、提灯のような暖色の明かりが夕焼け空にぽつぽつ浮かんで見える。原色のネオンや蛍光灯の白い光は、ここでは目に入りにくい。八坂神社周辺には着物レンタルのお店も多いので着物姿の人も多く、お茶屋さんの並ぶ石畳の花見小路通には運が良ければ舞妓さんの姿も見える。初めて見た四条大橋の夕暮れの景色に、関東産まれのわたしは結構感動した記憶がある。
清水、祇園。京都のメジャー観光地の名前が冒頭からぽんぽんと二つ並ぶこの歌は、春の京都の優秀なキャッチコピーとして、観光チラシやホームページで夜桜(と、満月)の写真と一緒によく引用されている。が、よくよく考えてみるとこの歌、ちょっとよくわからない。「清水へ祇園をよぎる」って、つまりこの人はどこにいて、何を見ているのだろう。 祇園を経由(よぎる)して清水へ行こうとする、その道行きに歩きながら桜を……どこの桜を、見ているのだろう?
 
そもそも祇園とはどこのことだろう。
祇園はもともと八坂神社門前の茶屋町(花街)を指す言葉だ。石畳を歩く舞妓さんの景色で有名な花見小路から見ると、通りを挟んで北側のエリアになる。現在花見小路にある茶屋街は路面電車の運行開始に伴い、大正になってから移動したものだ。
「清水へ~」の歌を詠んだ与謝野晶子が生まれたのは明治11年1878年)、歌の収録された歌集「みだれ髪」が刊行されたのは明治34年(1901年)。歌の詠まれた当時、祇園といえば四条通及びその北の茶屋町エリアが想定されたと思われる。一方、清水とは清水寺、及びその周辺エリアと思われる。祇園から清水へ行こうとすると、徒歩ならば30~40分ほどの道のりになるだろうか。
ではこの祇園から清水への道のりのどこかで見た桜、ということなのだろうか。
実際、祇園から清水へのルートには夜桜で有名な場所が多い。ここ数年、あまりの観光客の多さにライトアップを中断していた祇園白川の川べりの桜。八坂神社の奥、円山公園にそびえたつ祇園しだれ桜。桜や紅葉の時期には花灯篭の置かれる「ねねの道」を通って行く高台寺では、桜のライトアップのほか、プロジェクションマッピングまで行われている。その先にある清水寺も境内にたくさんの桜が植えられた夜桜スポットだ。

けれど歌が詠まれたのは明治だ。琵琶湖疎水による水力発電のおかげで京都の電気供給開始は明治23年(1890年)と比較的早い部類に入るが、だとしても歌の詠まれた当時、ねねの道に花灯篭は置かれていなかっただろう。高台寺清水寺で夜桜のライトアップはしていなかっただろうし、そもそも山門は閉まっていた可能性が高い。では祇園白川の桜だろうか。しかし白川は明治の琵琶湖疎水建築により流路が変更・整備されており、現在みられる川沿いの桜や柳は戦後植えられたものだ。*1
すると残りは八坂神社の奥、円山公園のしだれ桜になる。円山公園明治19年1886年)に開園しているから、しだれ桜が開園当初から植えられていたなら辻褄が合いそう、ではある。
では、このしだれ桜はどこから来たのだろう。

円山公園明治19年1886年)に京都市初の都市公園として開園した。公園の土地はもともと八坂神社(当時は祇園感神院)の境内の一部であったが、明治維新後、廃仏毀釈の一環として政府に没収された。境内周辺の森林と合わせ土地を整備し作られたのが円山公園だ。
明治以前、八坂神社もとい、祇園感神院の境内はどんな様子だったのだろう。祇園社境内と周辺の森林は合わせて祇園林と呼ばれていた。「近世の祇園社の景観とその周囲との連接に関する研究」(出村嘉史・ 川崎 雅史、土木計画学研究・論文集21 巻 (2004) )によると、この祇園林に桜が現れるのは江戸時代になってからのことだ。本居宣長の『在京日記』では、宝暦3年(1754年)に祇園社の北の林を開いて桜を植えたと記されているという。(ちなみに上記にリンクした論文中には当時の祇園を描いた絵なども掲載されているのでご興味ある方はどうぞ)


こうして生まれた桜林にはやがて借馬の馬場、大弓の射場、飲食店などが雑多に入り混じる遊び場が形成されるようになったというから、かなりの広さがあったと思われる。飲食店や遊び場ができれば祇園林には桜の時期以外にも昼夜問わず人が集まってくるようになり、時には相撲の興行まであったという。つまり、いまの円山公園(の一角)には、かつて大きな桜林とレジャーランドがあったのだ。
上知令に伴い桜林を含む祇園感神院の境内は政府に没収された。円山公園にある石碑によると、公園のしだれ桜は宝寿院の庭にあったものを残したものらしい。宝寿院は祇園感神院の坊のひとつで、桜林の東に位置したと推測されている。
それ以外の桜はすべて切り倒され、現在の都市公園円山公園は作られた。ちなみに明治当時のしだれ桜は既に枯死しており、2019年現在のしだれ桜は二代目になる。

 

さて、ここからはちょっとした想像、もとい妄想だ。

 

「清水へ~」の歌を詠んだ与謝野晶子が生まれたのは明治11年1878年)、円山公園ができたのはその8年後の明治19年1886年)。晶子がものごころついたとき、既に祇園感神院の桜林は存在しなかった。
けれど晶子の周りの身近な大人たちは祇園感神院の桜林を知っていたはずだ。晶子の生家は大阪の老舗和菓子屋だったから、彼女の父や祖父は仕事で京都へ行くこともあったかもしれない。

……ああ、昔は京都へ行ったときには必ず夜は祇園林に行ったもんだよ。今はみんな切られてなくなっちまったけど、春の頃は桜がそりゃあ見事でね。右を向いても左を向いても一面に桜、そのなかでちょっと一杯、引っかけてから射場に行く。ふわあっと風が吹いたら、そりゃあもう……。そんな説明を、幼い晶子が聞かされたことはなかっただろうか。

 

 

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき / 与謝野晶子

 

改めて、歌を見てみよう。この歌の「祇園をよぎる」とは本来「祇園を(わたしが)よぎる」であると思われる。つまり動作の主体である「わたし」、主語がこの歌では省略されている。しかし主語が省略され「よぎる」という動詞と「桜月夜」が連なることで、この歌は「桜月夜」、桜と月の風景がそれこそ祇園から清水まで、ずっと継続しているような印象をも与えるように思う。
最初に書いた歴史的な経緯等を踏まえれば、この歌で詠まれている桜は消去法から円山公園のしだれ桜の可能性が高い、と結論することも一応は可能だ。だがこの歌を読むとき、読者の脳裏に浮かぶのは夜の月を背景に立つたった一本の桜よりはむしろ一面の桜、桜並木や桜林のイメージであることのほうが多いのではないだろうか。そのイメージがあるからこそ、「こよひ逢ふ人みなうつくしき」という、下の句の言葉に読者も納得するのではないか。

与謝野鉄幹の創刊した雑誌「明星」に作品を発表していた晶子は僧侶との恋や舞妓の恋など、空想の内容も多く歌に詠む歌人だった。かつて昔語りに聞いた祇園林の光景を空想で詠んでみよう、そう思ったことはなかっただろうか。この歌の「祇園」とは茶屋町のことではなく「祇園林」をイメージしていた……そんな可能性は、ありはしないだろうか。

 

 

……以上はすべて、わたしの妄想だ。
歌集「みだれ髪」に収められたこの歌は当時京都にいた与謝野鉄幹と晶子の恋愛関係と絡めて語られることもあるけれど、実際に晶子が何をきっかけにこの歌を詠んだのか、わたしには知る由もない。もしかしたらわたしの知らない、京都の夜桜を見た経験が基になっているのかもしれない。

だいたい「祇園」が「祇園林」だったとしても「清水」の謎は残る。どうして夜に清水へ行くのだろう。清水寺の近くに料亭か宿泊先でもあるのだろうか。やっぱり京都の地理全般について、晶子が思い違いをしていたのだろうか。

とはいえ、個人的にはもしこの歌の「祇園」が明治維新で失われた「祇園林」だったら結構面白いな、と思う。冒頭にも書いた通り、この歌は今も春の京都の観光案内によく使われている印象がある。しかし今日の京都が観光都市として、古都・京都のイメージを打ち出していくきっかけになったのはまさしく「祇園林」を奪った明治維新、に伴う東京遷都だろう。遷都により皇族、華族らが東京へ一斉に移動したことで京都は人口が激減した。地域再建のため、京都は国内外の観光客に対し、日本の古都としてのイメージを府全体として打ち出していくことになる。


桜の時期、祇園では「都をどり」という舞踊公演が催される。都をどりでは京都最大の花街、祇園甲部の芸妓・舞妓たちが揃いの衣装をまとい、花道から一斉に現れ総踊をしたり、四季折々の京都の名所を長唄などで紹介しながら踊る。初演は明治5年(1872年)、博覧会に合わせた余興として企画されたものだが、舞妓たちが桜の枝を持って踊ることから、英語ではCherry danceと訳された。ちなみに都をどりの歌詞は当時の京都府知事が作詞している。
初演時は屋外で行われた都をどりだが、現在は演舞場で行われる。公演の基本的な構成は明治当時からずっと変わっていないらしい。公演の一番最後、総踊の場面では、舞台天井から人工の桜の枝がずらりと下げられ並ぶ。まるで、かつて京都中心部に存在していた桜林を再現するかのようだ。祇園茶屋町は八坂神社からほど近いので、都をどりの構成を決めた当時、祇園林の桜に親しんでいた花街の人々も多かったに違いない。人工の桜の森の満開の下、桜をあしらった着物をまとった舞妓たちは桜の枝を持っていっせいに踊る。まさしく、さくらの踊り(Cherry dance)だ。
かくして明治維新により失われたはずの桜のイメージはくりかえしくりかえし、現在の京都の(あるいは日本の、だろうか)生存戦略としてのオリエンタリズムを演出するために使われ、再生産されていく。

 

内外の観光客に古都としてのイメージを打ち出しながら、しかし明治期の京都はもう一方では時代に即した近代化の取組を進めていった。電気供給が早かったため街には電燈が国内でもいちはやく灯り、国内初の電車である京都市電を走らせる。繊維業の老舗のなかには海外の技術を学ぶため、息子を留学させるところもあった。京都文化博物館別館、長楽館など、今ではレトロ建築と呼ばれる建物の一部はこの時期建てられたものだ。自転車や洋装など、個人で取り入れられる西洋文化も登場してくる。新しいものを次々に取り入れ変化していく街のイメージは、木も草も落ち着きなくざわめきだす春の闇に重なる。晶子が鉄幹と会った京都は古都であると同時に西洋文化を貪欲に取り入れ、目の前で刻々と変化していく街でもあっただろう。

 


 *
 

 

視界一面、桜が咲いている。風もないのにゆっくりと夜の闇へ散っていく、泡のような白をぼんやり見送っていた。 遠くから誰かの笑い声がずっと響き続けている。
何もかも失われるのかもしれないし、何も変わらないのかもしれない。なにもかもが幻なのかもしれないし、すべてが本当のことなのかもしれない。この町は時にまったく正反対のことを同時に言うから、どちらにしたって結局は同じことなのかもしれなかった。ゆるゆると進む雑踏の中、夜の空気はしんと冷たい。ふいに笑いたくなって空を仰ぐと、花の重さで揺れる枝と枝の間に、月がぽっかり浮かんでいるのが見えた。
みんなみんな、幸せになればいいのに。
言葉は音にならず、月を見上げたままわたしはくすくす笑った。お酒のせいだろうか、なんだかひどく幸福で、そして同じくらい野蛮な気分だった。そうだ、わたし達はどこへだっていける。
もう二度と会わないひとも、そうでないひとも。
幸せになれ。


今はもうどこにも存在しない、ある春の夜の幻のこと。

 

 

それにしてもこの有名な歌の「桜」が具体的にどこの桜を想定しているのか、与謝野晶子研究者の中で話題にならないわけはないはずだ。専門家による考察等についてご存知の方、ご教示いただければ幸いです。

 

 

 

20200420追記:

 その後、別件で九鬼周造1888年2月15日 -1941年)の「祇園の枝垂桜」という文章を読んでいたところ、こんな下りを見つけました。

夜の八時頃であったろう。枝垂桜の前の広場のやぐらからレコードが鳴り響いて、下には二十人ばかり円を描いて踊っている。四十を越えた禿げ頭の男からおかっぱの女の子までまじっている。中折帽も踊っていれば鳥打帽も踊っている。着流しもいれば背広服もいる。よごれた作業服を纏ったまま手拍子とって跳ねている若者もある。下駄、草履、靴、素足、紺足袋、白足袋が音頭に合せて足拍子を揃えている。お下げ髪もあれば束髪もある。私が振返ってすっかり青葉になってしまった桜を眺めている間に、羽織姿の桃割と赤前垂の丸髷とが交って踊り出した。 見物人の間に立って私はしばらく見ていた。傍の男がこのくらいすくない方がかえっていいと呟いていたから、花盛りにはよほど大ぜい踊っていたものらしい。

知恩院の前の暗い夜道をひとり帰りながら色々なことを考えた。ああして月給取も店員も運転手も職工も小僧も女事務員も町娘も女給も仲居もガソリンガールも一緒になって踊っているのは何と美しく善いことだろう。春の夜だ。男女が入り乱れて踊るにふさわしい。これほど自然なことは滅多にあるまい。……(後略)

 

九鬼のこの随筆がいつ書かれたものなのか、青空文庫からは確認できませんでしたが、晶子が念頭に置いていた桜が祇園の枝垂れ桜ならば、このような景色を念頭に置いていた可能性もあるかもしれません。