つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

めばえちゃん、あるいは根無し草の善意について(鏡の箱に手を入れる第1回・再録)

 

突然だが、福島大学には「めばえちゃん」というゆるキャラがいる。

「めばえちゃん」は白い襟がついた明るいきみどりいろのワンピースを着ていて、おまんじゅうみたいなころんと白い顔をしている。鼻と同じ色をした茶色い目は閉じていて、多分笑っているのだと思うけれど、なんだか眠そうな顔のようにも見える。頭に二本、植物の芽のような形の角を生やした「めばえちゃん」は、かつて阿武隈高地の森に棲んでいたという木の妖精(四歳)だ。

わたしが「めばえちゃん」に出会ったのはとあるイベントでのことだった。その日はとても良い天気で、陽射しが空にちかちか白く瞬いていた。屋外のイベントだったので「めばえちゃん」は青空の下おっとりと手を振りながら、盛んにたかれるカメラのフラッシュの中、不思議そうに首を傾げていた。中の人なんていない。

ここまでの記述ですでにお察し頂いている気もするが、わたしは昔からいわゆるキャラクターもの、それもどちらかというと目と鼻だけの、一歩間違えると無表情で怖いと言われそうな造形のキャラクターが好きだ。最近だと映画「ベイマックス」のベイマックスの造形は予告編映像だけでわたしの心を撃ち抜いた……と書けば、大体の傾向はお分かり頂けるだろうか。イベント会場で「めばえちゃん」に出会った私はそんなわけで当然「めばえちゃん」の写真を撮り、携帯の待ち受け画面に設定した。

かわいいでしょう。福島大学の「めばえちゃん」って言うんだよ。飲み会の時、そう言って待ち受け画面を友人に見せると訝しげな顔をされた。

東北出身なの? じゃあ、親戚か知り合いが東北にいるの? 

いないのに、どうしてそんなに関心持ってるの?

 

東京に生まれて東京に育ったので、東北に住んでいたことは一度も無い。オフライン発祥の付き合いの長い関係に限って言えば、東北出身の友人・知人も殆どいないと思う。岩手にも宮城にも福島にも。

……つまり、東北に縁が無ければ、東北に関心を持ってはいけないとでも?

友人の問いに笑ってごまかしながら内心でそう苛立っていたけれど(そもそもわたしは「めばえちゃん」がかわいいから待ち受けにしていたのだ。冒頭の記述でご理解頂いていると思うが、「めばえちゃん」はとてもかわいい)。それと同時に、わたしにも分からない、と呟く自分もいた。

勉強会に行き、本を読む。中々機会は取れないけれどたまにボランティア旅行に行く。名産品を買う。そんな人間はどうやらわたしだけではないようで、東北ボランティアのツアーに行けば沢山の人に合う。

だけどなぜそうしているのか。

震災から四年経った、二〇一五年の今でもよく分からない。

 

三月、四月。

学校と呼ばれるものに行かなくなってからこの時期の、新環境で心機一転というイメージはかつてより遠くなり、ただただ気ぜわしさによる疲労ばかり募るようになった気がするけれど、それでもこの時期に大小様々の節目や変化を迎える人は周囲にちらほらいて、そのたび途方に暮れてしまう。もともとそんなだったのに、二〇一一年の震災以降はそれまでとは別の意味でも変化を意識する時期になった。

あれから何が変わって何が変わらないのか、自分に何が出来るのか。自分は何がしたいのか。春の来るたび考える。

 

震災から数ヶ月後の初夏のことだった。

新入社員の男性が打ち合わせの折にふと、今度の連休にがれき撤去のボランティアに出かけるのだといった。友人数名でヴァンをレンタルして行くらしい。大変なことが起こったから何かしなければという焦燥感がネットにもテレビにも溢れて救援物資や寄付先の情報があちこちで見られた頃、ボランティアに行くなら装備や準備は自己責任で、と口をすっぱくして言われていた頃のことだ。あっけらかんと笑って告げる彼の言葉はひどく眩しかった。

わたしがいわゆる被災地にボランティアへ行ったのはそれから随分後のことだ。かつてテレビで何度も見たがれきや避難所の景色を、だからわたしは直接には見ていない。震災直後に訪れた善意も熱意も行動力もある人たちによってがれきが既に撤去されたその後、剥き出しになった家の土台を覆いつくすように背の高い草が生えている、そんな景色が、私の直接見た「被災地」の景色だ。大変なことが起こったという衝撃だけで体が動くような時期は、恐らくその時点で既に過ぎていた。

 

友人・知人がいるわけではない、具体的に何をこうしたいという目標値があるわけでもない。それでも何か、出来ることはないだろうかと思うこと。

それを善意と呼ぶことが仮に許されるとしても、それは根無し草の善意とでも言うべきものではないか、と心のどこかで疑っている自分がいる。根無し草の善意は根無し草だから、ふらふらとどこへでも行けてしまう。とんでもなく的外れな場所にだって。

テレビなどで見る、被災地と交流を重ねているというボランティアの人たちを見ると、ああこの人たちはちゃんと根付いたのだな、と思う。何度も何度も時間と熱意をもって彼らは根付く場所を作り、そこから芽ぶき、何かを作ろうとしている。でも自分はそうではない。そこまでのものは掛けられていない。

きっと自分の友人が同じことを言ったら、わたしは考えすぎだとその人に言うのだろう。

心のもう半分でそう思いながら、けれど実態とかけ離れたイメージや誤った知識に根付いた善意は、時に悪意より性質が悪いではないか、とも思う。根付くこともしないままつまみ食いのような行為を重ねて、自分だけはそうならないなどと言えるだろうか。どうしてと友人に問われて答えることもろくに出来ないのに、これが手前勝手な思い込みや感傷ではないと、どうして断言できるだろう。

 

何か出来ることはないか、と思うことは根無し草のわたしにとって、あちこちに転がっている思い込みの種を慎重に峻別し続ける作業とイコールだ。葛藤がつらいなら何かを確信してしまうか、あるいはその場から離れるのが一番楽なのだろうけれど、それは出来ない。確信してしまうことは怖い。

具体的に何をこうしたいという目標値があるわけでもないけれど、それでも何か出来ることはないだろうかと思うこと。そこに友人・知人がいるわけではないけれど思いを馳せようとすること。それ自体はありふれたことだし、間違っていないけれど、具体の形にしようとすれば技術や知識は当然に求められてくる。社会学者の開沼博は復興支援の具体の形として「買う・行く・働く」をよくキーワードに挙げているが、では何を買おうか、どこに行こうかと考える時、そこに選択が生じることをわたしはどうしても一瞬は意識してしまう。

自分に何が出来るのか、と考えることは、自分は何を知っているのか、本当に知っているのか、知ろうとしていたのか……つまりは何を知らないのかと、問いかけることでもある。

 

やっぱり東北に行こう、とわたしがはっきり思ったのは震災から一年後の三月十一日のことだった。

二〇一二年三月十一日の東京は晴れていた。桜はまだだったけれど温かくて、カフェの屋外テーブルにはお茶やお菓子を食べる人たちが沢山座っていた。本屋の店頭に並ぶ震災関係の書籍やテレビに映る慰霊の儀式の中継と、それらの景色との対比は現実感が恐ろしく欠けていて、ああこうやって自分も忘れていくのか、とふいに思ったのだった。実際にボランティア・ツアーに参加したのはそれから半年以上後のことだ。

ボランティア・ツアーに参加したり本を読んだりすることであの時の焦燥感が消えるわけではない。何故そうしているか、自分でも納得できるような言葉は今も見つからない。ただ忘れたらあっという間だ、と思う。それだけは確かだ。

わたしの場合は一年後のあのタイミングでようやくそう思って、具体的に体を動かそうと思うことができたのだった。

 

思えば入学式や卒業式といった、春に行われるそういった行事に、わたしはいつも乗り遅れていた。卒業アルバムの交換やお別れ会のある三月にはどうしてみんなそんなに泣いているんだろうとぽかんとしているのに、入学式や歓迎会のある四月になればどうしてみんな新しい環境にそんなに早く馴染んでいけるのだろうと勝手にさびしくなっていた。

みんな同じタイミングで悲しんだり嬉しくなったりして自分だけがそのタイミングからひとり外れている、のではなくて、例え同じものを経験したとしてもそれぞれに異なる速度とやり方で向き合いながら生きていくから、せめて分かりやすい日を決めて、そこではみんな一緒に悲しんだり祝ったりして何かを分け合おうとしているのだろうと、そう気付いたのは結構最近のことだ。だからわたしはずっとそういうタイミングで生きてきてこれからもそうなのだろうし、わたしより早い人も遅い人も当然いるのだろう。

自分に何かができると思い込むことも間違っているし、何かを成さなければいけないと思うのも間違っている。かといって、何もできやしないと思うことも、やはり間違っているのだと思う。

そして今年も三月が来て、その後に四月が来る。

 

機種変更した今も「めばえちゃん」の写真データは残っているので、思い出した時にこっそり眺めている。画面の中からこちらを向いて手を振る「めばえちゃん」はやっぱりかわいいので、また会えたらいいなあ、と思う。

大事なことなので繰り返すけれど、中の人なんてもちろんいない。

 

 

(初出・2015/5/10。再掲にあたり一部修正)

Web文芸誌「片隅」への掲載当時、挿絵を描いてくださったなっつぁんさんが「誰でも感じた経験のある感傷に触れるように」描いた、とコメントされていたのが印象的でした。