つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

海にいるのは


人魚を待っている、とあいつは言う。
 学校までの道は自転車で三十分、海沿いの真っ直ぐな道は緩やかな坂道になっている。車の殆ど通らないアスファルトの狭い道には真ん中に大きなひびが走っていて、タイヤが触れるたびにがくがく揺れる。
 帰り道は下り坂、ベダルから足を離しても自転車は勢い良く走り続ける。その体勢のままぼんやり海を眺めていると桟橋にあいつの姿が小さく見えて、あたしはブレーキを強く握った。自転車を止める錆び付いた音は車どころか人間すらいない景色の中、結構大きく響いた筈なのに、膝を抱え座り込む姿は忌々しい程に動かない。
「何、その花」
 日だまりの中、見慣れた光景に混じり込んだ小さな違和感に声を上げると持ってきた、と掠れた声であいつが答えた。何それ、とあたしはもう一度呟いた。花なんて似合わなすぎる。
「お前、これ名前知ってる?」
「知らない。あんたは」
「俺も知らない」
 でも水の中に花は無いし。そう言って汚れたガラス瓶に生けられた小さな花をあいつはそおっと撫でた。自分の手が少しでも触れたらこの花はばらばらに散ってしまう、そう信じているみたいに。だから喜ぶと思ってさ。

 人魚に会った。もう一度会いたい。
 あいつがそんなことを言い出したのは一月程前、まだ海も空も重たい灰色に染まっていた頃のことだった。
 勿論、あたしだって最初は信じようともしなかった。だけど波打ち際の片隅、捨てられた玩具みたいに白い桟橋にそれからあいつは毎日、日の暮れるまで座り続けている。
「ねえ、いつまでいるの」
 波音の中、呟きはあっという間に埋もれていき、反射する光にあたしは目を細めた。夕暮れは近い筈なのに、波を漂う光は射すように強い。本当は、この桟橋はあたしも好きな場所だった。湾の端にあるお陰で横を向けば波の描く曲線が、先端に立てば海の中に漕ぎ出したような気持ちになれる。
「ねえ」
 膝をつき、顔を寄せ繰り返すとようやくあいつの目がこちらを向いた。
「いつまでいるの」 
「うん、人魚が来るまで」
 おなじみの台詞と共に見返すぼんやりとした、その癖素早く逸らされたその顔にあたしは顔をしかめた。違うよ、あんたはそんな奴じゃない。厚みのあるパーカーの布の中心から伸びた、意外な程に白い首筋を睨みつける。じっと座って海や花見詰めてるなんて、そんなのあんたの柄じゃない。
 そうだ、あたしは覚えてる。高校の入学式、早速金色に染めた頭を大いばりで見せて中学から一緒だった奴らをどん引かせたのも、授業中にクラスメートと机の下で雑誌の回し読みしてたのも。馬鹿笑いしながら空気の抜けたバレーボールでサッカーして女子のお弁当滅茶苦茶にしそうになったのも、教室の窓の横に生えた木から伝って外に出ようとして怒られてたのも、それで結局左足を捻挫したのも。
 全部、あんただった。あんたはそういう奴だった。
 なのに潮風に頬を冷やしながら振り向かない背中を見ていると、段々あたしは不安になってくる。ほんの数ヶ月前の記憶すら、朧になっていくようで。振り向かないあいつは何処か遠くの、あたしの知らない別の何かを見ている。
「さっさと帰ろうよ」
 だって何よ、人魚って。
 苛々したあたしの声に、あいつは先に帰っていいよ、とそのままの姿勢で呟いた。俺は、待ってるから。奇妙に大人びた穏やかな声に、あたしはこっそり唇を歪めた。
 ねえ、あんたの会いたい人は何処にもいないよ。
 込み上げた言葉はだけど音にならず、あたしは唇を歪めたまま、あいつと海を睨み続ける。春の海。夕暮れの風は冷たいけれど降り注ぐ日差しはまだじりじりと、真昼の熱さを保っていた。空も海も青くて何処までも広がっていて、なのにあいつは桟橋に座ったまま、世界の果てに閉じ込められている。
 あいつも、そして多分あたしも。
「ばかみたい」
 ぶつかるように肩口に顔を押し付ければ微かな体温。何だよと、驚いたようなあいつの声と振動が、額からあたしの中へ落ちていく。潮の香りのする風が、波の音が、膝に押し付けられた木の感触が、何もかもが今はただ鬱陶しかった。なあ、人魚って花喜ぶかな。やがて間延びした声であいつがそんなことを言うので、あたしはそのまま目を閉じる。
 こっちを見てよ。
 だけど囁きは布に阻まれて、きっとあいつに届くことはない。
 

 遠くでぱちゃりと、水の跳ねる音がした。



pixiv、novelistで連携する#kaite企画で書いたもの。
イラストから書き起こした話です。
(pixivイラストタイトルは「恋のはじまり」)