つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

草を刈る

少額ながら寄付をしていた被災地支援団体から手紙が来たのは初夏のことでした。
震災以来、任意特定団体として活動していたその団体からの手紙は、運営が軌道に乗ったことから一般財団法人として今後は活動する、したがってこれまでの、定期的な寄付受け入れは行わないという報告でした。
良かったなあ、と思いつつ、そうだ去年は無理だったけど今年こそ行かなければと思ったのでした。

というわけで2014年9月の3連休に陸前高田気仙沼に行ってきました。
どうせ二年前も書いているので今回も書きますが、JTBのボランティアツアーパックを使っています。

 *

世界遺産・平泉を謳う看板が駅のホームからも沢山見える一関駅から陸前高田までは車で一時間半弱、山を越えていきます。
平泉というと山の奥のイメージが強いので陸前高田の物産センターでバスから降りたとき、潮の匂いがしてびっくりしました。
物産センターから更に移動してボランティアセンターにつくと、あたりは一面の緑。


あれ、これ、2年前から余り変わってなくないか?
——というのが、最初の感想でした。

もとは一軒家のあった敷地内にプレハブ小屋が二軒建っている、その片方がボランティアセンターです。
道路を挟んだ向こう側に、神社のあるちょっとした高台があります。その周りにも高台は幾つかあるので、そちらを向くと濃い緑がすぐこちらまで、ぐっと迫ってくるような感じがあります。
震災後に作られたのだろう竹の鳥居の側には膝の高さに、モノクロの、かつてそこにあったものの写真が看板にして立てられていました。
石の鳥居やお蔵、細い道を行き交う割烹着姿の女性達。もしかしたら結構昔のものかもしれない写真。
見回すとそれはぽつぽつと、周囲にも幾つか立てられているのでした。

ボランティアセンター、と書きましたが、施設も職員もいわゆる公的なものではありません。
センター長と呼ばれている方はセンターのある敷地にかつてあった一軒家に住んでいた方です。
震災直後、各地から来るボランティアの受け付け対応は市の社会福祉協議会(の、幹部は殆ど亡くなったため一般職員)が行っていましたがこれが今年4月に閉鎖、協議会は通常体制に移行。
作業説明を行ったのは社会福祉協議会の方でしたが、基本的には地域のボランティアスタッフが中心のようです。

竹の鳥居をくぐって神社へ向かう人たちを遠くから見ると、草の波に腰まで浸かっているように見えます。
家の基礎だった、とぎれとぎれの四角の中に草は勢いよく生えていました。その光景は二年前、南三陸で見た景色とよく似ています。違うのは瓦礫の撤去は今は完全に終わっていること。
道路を辿っていくともとは車の導入口だったのでしょう、コンクリートのゆるく短いスロープが時折現れます。スロープを上った先には身長150センチの私と変わらないくらいの緑が、時折コスモスやハルジオンなどを交えながら広がっている。
ひょろりと一本だけ伸びている薔薇は、誰かが育てていたのでしょう。近くに川があることもあり、その向こうは背伸びをしても見えない。トンボや蝶が飛び、虫の音が聞こえる。
夏の緑ばかり。
新興住宅街で住宅の密集していた場所なので、家のあった場所はみなそうなっているのでした。

作業のメインは側溝に詰まっていた泥の点検作業です。
道路に広げられた粘土質の土を魚のたたきでも作るようにスコップで切り刻み、潮干狩りで使う小さい熊手で検分し、泥だけを側溝へまた落とす。
作業には大学生のグループとスポーツ関係の団体も来ていました。
震災による津波を受け、陸前高田の都市計画では人工的な高台を幾つか作り、そこに住宅地を建設することになっています。かつて住宅街だったセンター周辺も高台になる。ということは、今回作業している場所は土に埋められるということです。
その前に遺品を回収しておきたい、そのための作業です。

背中には陽射しが当たってじっとしていると熱いほどです。
検分作業中はずっと同じ場所に座っているので、側溝に腰掛けながら、砂埃の中ぽつぽつと会話が交わされます。

はい、大学は今夏休みなんで、一週間ごとにボランティアのバスが出ます。
こうずっと同じ体勢だと腰が痛くなりますよね。
あ、髪はね、毛根があればDNA鑑定が出来るから。無かったら駄目。
普段は二週間に一本バスが出ます。お祭りに参加したりもしました。
えらいねえ、俺の若い頃とは大違いだ。
タバコはね、止められないね。でも禁煙していた奴も、震災の頃はみんなタバコ吸ってたねえ。
旅費と宿泊費は大学が出してくれます。長靴やカッパは自費です。
震災の時みんな車で逃げたわけ。それで道が渋滞になって進めなくなってる内に津波が来て、みんなやられた。この前久しぶりに大きな地震があったでしょう、また渋滞になった。人間は、学ばないね。
お疲れさまです。よろしければ、飴どうぞ。
震災からずっと放置されてた建物をこの前ようやく取り壊したら、中から白骨死体が出たって話もあるから。


神社の方角へ振り向くとぐっと迫ってくる緑の一部がごそっと剥がされ、茶色い土の塊になっています。
13メートルある高台を9メートルまで削り、削ったその土をベルトコンベアで運び、新しい高台を作る。削られた山は曲線を無くし、立方体を重ねたピラミッドのような形になっていました。ダンプカーでやるより圧倒的に早いらしいですよ、と、ガイドさんにもセンターの人にも言われました。
2年で済むそうです。
震災から3年目の今から順調に進んでも2年、それも土の運搬の話だけのようなので、そこから家を建てるとなれば、もしかしたら更に1年。
そうしたら合計では6年。


復興はなかなか進んでいません、というニュースをテレビや新聞で目にします。その逆のニュースも目にします。
私がツアーに出る直前はちょうど3年半という節目だったこともあり、仮設住宅での暮らしが長引くことのストレスや、仮設住宅自体の老朽化についての記事が多くありました。
その一方でずっと使用できなかった田んぼで、久しぶりの収穫がされたというニュースもありました。
多分私はどこかで、色々言われているけれどみんな近いうちにどうにかなるんだろうと思っていたのだと思います。
そうでなければ自分が、あと2年と聞いてショックを受けたことの説明が付かない。

(住宅に関する状況は地域によってももちろん異なり、
 宿泊先のテレビでは建築中の公営住宅に人が入らないというニュースもありましたし、帰宅数日後のテレビでは村ごと移転したケースについて取り上げられていました。
 それらのニュースに対する賛否の意見はネットを検索すればそれなりに入手できる。
 今までならば知ることも無かった、誰にも届かなかったかも知れない声を知ることができるようになったことは間違いなくいいことなのに、取りこぼしのないようにとあちこちへ目をやっていく内に、自分が何を言っても全て間違いになってしまうのではないか、自分が見たものもそれを表すために選ぶ言葉も間違ってしまうのではないか、最初から自分はある思い込みを持ってものを見ようとしているのではないか、そうしてその結果誰かを苛立たせたり傷つけたりするのではないか、そんな思いが浮かんでくる。)


宿泊先は気仙沼のホテルでした。
陸前高田復興まちづくり情報館を見学後、明るい、早口の女性添乗員さんの説明に右へ左へと何度も首を振りながらバスは坂道を進みます。
ちなみに場所が違うとはいえ、こうした説明は2年前はありませんでした。恐らく業務として追加されたのではないかと思います。
ガソリンスタンドの看板、文字の汚れが見えますか。あそこまで津波が来たんです。
右手の時計、震災の時刻で止まっているでしょう。
あれが有名な一本松です、保存処理で十年持つそうです。
資料を回しますね。これは高田小学校の父兄の方の作成した本です。これは大学生ボランティアが作った観光案内です。
ベルトコンベア、週末だけど動いてますね。土が落ちているのが見えますか。いつも正午にダイナマイトで発破を掛けるので、毎日どおんって鳴るそうです……。
友人が中越地震被災したというガイドさんは、ボランティアツアーの添乗員は出来るだけするようにしています、と言っていました。

川を越えて土を運ぶ陸前高田のベルトコンベアは、三〜四階建てのビルほどの高さがあります。
白いカバーのかかったベルトが高いやぐらに支えられて、山の中から川の向こうへ伸び、高台が作られる複数のポイントに土を吐きだしていく。上から見ると歯車、あるいは少し歪で分岐の多いフォークのような形です。
このベルトコンベアも観光地になっているようで、やぐらの間に駐車場や飲食店のプレハブが幾つも並ぶ箇所がありました。
(実際後で調べたところ、見学が出来るようです)
希望の架け橋。
そんな呼び名を持つ白いベルトコンベアが陽射しに光るのを背景に海鳥の群れが飛び立っていくのを見ていると、まるでそこだけが、昔誰かが描いた未来都市の風景のようにも見えます。

泊まったホテルの入ってすぐのロビーには宿泊したボランティアの方の色紙や写真があちこちに飾られていました。
避難所での生活を記録したパネルには写真と紙に書かれた説明コメントが時系列順にコラージュされています。
応援コメントが一面に貼られた体育館。その下に並ぶ段ボール。初めて新聞が届けられた日のこと。

「到らぬ行政とガソリン補給不足により」

コラージュの中、そんなコメントを見て暫く立ち止まってしまいました。

気仙沼では、津波のために防潮堤を築くことになっています。
防潮堤について、地元の方のお話を聞く機会は2回(2名)ありましたが、どちらも肯定的な見解では無かったのは共通でした。
でも反対してたら工事が遅れるし、嫌だって言って国からお金が出なくなったらもっと困るから。
高台の工事だってやるやるって言ってもう3年でしょう。
……だからといって皆が反対しているとも思いはしないのですが。

(行政、とは、誰だろう)
(南三陸のボランティアの人は、国がみんな悪いんだと思っていた、と言っていた)
(悪いのは)

高台建設にはあと2年、ベルトコンベアには120億円。一本松の保存には1億7千万円の寄付が、保存期間は十年。
お金の言及が何度もあったのは、それが何度も話題になるからなのか。
時間もお金も、山ほどかかる。

 *

私たち、来た意味あったんでしょうかと。
帰りの新幹線の中、隣の席の人がぽつりと言いました。ボランティアは初めてと言っていた人で、私も二回目なのであまり変わらないですと話していたのでした。

土の中の遺品を捜して、もし見付かったらもちろん良いことだと思います。
でもその後に草刈りしましたよね。センターの方の、流された家の跡の。あれ、すぐにまた生えてきますよね。そりゃあ、ずっと草ぼうぼうのままでいいとは思わないですし、花も植える予定みたいですけど、でも。
それは、私もぼんやり思っていたことでした。

ボランティアセンターの方によれば、ボランティアは確実に減っているのだそうです。
センター自体も状況の変化を踏まえ、4月に閉鎖予定だったのは先にも書いたとおりです。
実際、ツアー申し込みの際に覗いたJTBのHPもツアープランの内訳が以前から変わっていました。漁船や魚市場で手伝うような肉体労働系は以前からありましたが、仮設住宅の方の傾聴ボランティアは2年前には無かったものです。
瓦礫を撤去し、次へ進むための足がかりを作るような作業は少なくなってきている。
(団体によっては仮設住宅の補修ボランティア等を行っているところもあるようですが、この場合は参加者の能力・装備がより求められることになります。
あるいは、素人に「丁度いい」仕事が減ってきている、と言い代えた方がより正しいのかもしれません。人が足りている訳では恐らくない。)
(そしてまだ、瓦礫撤去さえ出来ない、立ち入ることの難しい地域も存在する)
今まであった作業が減っているなら、それに代わる「コンテンツ」を導入しなければ、ツアーは減る一方になる。
一方でそれは、肉体的に厳しい作業が難しい人、つまり女性や小中学生の子どもでも参加出来るようなツアーが増えてきたとも言えるのではないかと思います。


3年経てば状況は変わる。フェーズが変わる。
ボランティアが瓦礫を整理するのに代わりベルトコンベアが土を運ぶ。都市計画に従って高台は作られる。整備されたシステムが現れてくる。
それでもボランティアセンターは今でも撤去されずにあります。
ここに住んでいた方達が今住まれている仮設住宅は離れた場所にあります。見ると悲しくなるから、ここに住んでいた方が来ることは余りありません。
でも週末やお休みになると遠くからバスが来て、何だか作業をしているのが遠くから見える。声や音がする。
ああ私たち忘れられてないんだねって皆さん思ってくれるから、こうしてボランティアの方に来て頂くことは必要なのだと思っています。
作業の始まる前、社会福祉協議会の方に言われた言葉です。

関東からツアーで来て、いずれまた生える草を刈ることに微かにでもいい、意味があるのだと思いたい。けれど、意味があると思って安心して本当に大丈夫なのかともどこかで思う。
それなら他に何が出来るのか。
(でも生活は多分、草を刈ることに似ている)


あなたが被災地のことを忘れても、あなたのお金を被災地に届けます。

寄付をしていた被災地支援団体のキャッチコピーは確か、そんな内容でした。
働いて、生活して、買い物をして税金を払う。税金はもちろん復興のためにも使われるから、寄附をしなくてもボランティアに行かなくても被災地のことを忘れても、何もしてないことには誰も決してならないのだと思いつつ、こうして書いている今も答は出ていません。

 *

ところで、ボランティアツアーの中というのは結構不思議な人間関係だなと思います。
同じ場所に行き同じ場所で作業し、同じ場所で眠り(大抵の場合、同性複数人で相部屋になります)、食事を取るのに仲良くなろうとか一緒にご飯を食べようとか自己開示をしようとかいった空気は殆ど生じないまま、それでも何かの折にぽつぽつと話す。
どちらからですか。ボランティアは何回目ですか。今までどちらへ行かれましたか。


東北のことはずっと気になっていたんですけど、でも体力が無いから自分が行ってもなあって。
ああ私もです。長時間の夜行バスは、さすがに。
新幹線で来たなら体力あるでしょって言われちゃいましたけど。
明日絶対筋肉痛ですよね。
明日ならまだいいですよね。

新幹線で行けるツアーがあって良かったですよね。
来れて良かったです。


お酒の匂いがする新幹線の中で帰り道、隣の人とそんなことを話していました。