つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

近況報告

 化粧気の無い顔は何かを塗ったように白かった。
 就職活動中の学生のようなパンツスーツを着ている彼女の姿は何だかいかにも「着られている」風で、黒づくめの集団の中ですら何処か異質だった。
 お数珠忘れちゃった。
 視線が合うと彼女がそう言って笑ったので、私は曖昧に頷いた。無防備な笑いだ、と私は思った。ちょっとぎょっとする位に無防備な、だけど弱々しい笑いだった。
 私と彼女は同じ中学校の出身で、今日見送った死者もそれは同じだった。早すぎるその死を、誰もが悼んでいた。私は既にお焼香を終え、通夜振る舞いに手を伸ばそうとしていた。まあ、どうぞ。片手に箸を持ったまま、狭い長テーブルに置かれたコップにもう片方の手で私はウーロン茶を注いだ。お酌は、どうも慣れない。ましてや相手と、お酒になんて興味も示さなかった時代しか共有していなかった場合は尚更だ。大きな桶に並べられた握り寿司や鉢に盛られた野菜の煮物を、私たちは黙々と食べた。会場は恐ろしく冷えていた。
 こんな機会だけど、会えて丁度良かった。相談したいことがあって。
 なに。
 立食式の会場は周囲の人の移動が激しく、横に並ぶ私たちの体はテーブルにすり寄ったり、また離れたりする。見覚えのある顔も多くいたが、名前を思い出せない顔もいる。ビールの入ったコップを片手に、あちこちで近況報告が交わされる。
 同じ学校に通っていた頃はいつも一緒にいたと思うのに、学校を卒業してから彼女とは年賀状のやり取りしかしていなかった。私たちが中学生の頃、私達の世界にメールはまだかろうじて存在していなかった。進学した高校と大学の名前、結婚して子供を産んだこと。それくらいはどうにか、知っている。
 最近分かったんだけど、私、二重人格だったの。
 成程。
 河童巻きを咀嚼しながら私は頷いた。うん、成程ね。相手の言葉に中立なまま時間を稼ぐ、これらはとても便利な言葉だ。昔読んだ本によれば、切ないという言葉も使い勝手がとてもいいらしい。昨日、明け方まで残業だったんだ。切ないねえ。上司が嫌な奴なんだ。切ないねえ。
 高校の時にちょっとショッキングなことがあって、それでもう一つの人格が生まれたの。元の人格はずっと眠ってたんだけど最近目を覚ましちゃったから、記憶が混乱してて。
 混乱。
 今の私の記憶は中学校時代で止まってるの。
 ウーロン茶の入ったコップを持ち上げる彼女を、私はちらりと盗み見た。真っ白い横顔。コップを持つ、ジャケットの袖から伸びた細い右手首はやはり平らかに白く、青い静脈が微かに見えた。
 夫のことも子どものことも今の私の記憶には無いから、他人と暮らしているみたいなの。なのに向こうは当たり前みたいに、知り合いみたいな顔で話しかけてくるから、それがとても気持ち悪いの。
 まあ実際、向こうからすれば知り合いでしょうから。
 うん。こっちがよそよそしい態度を取るから、困ってるみたい。でも私にはどうしようもない、きおくが、無いんだもの。両親や兄弟も私が覚えているよりずっと老けてて、いっそ無惨なくらい。皆、顔を合わせる度に混乱するから、段々会うのが怖くなってしまった。
 よく分からないんだけど、と私は首を傾げた。私が無惨に老けてるのは貴方にとって平気なの。
 貴方は余り変わってないよ。
 言いながら彼女は周囲をぐるりと見回した。皆、余り変わってない。だから今日は久しぶりにほっとしてる。
 彼女の視線の動きに合わせ、私は会場を見回した。周囲にいるのはかつてより太ったり背が伸びたりして、化粧をしたり名刺を交換したり子どもの話をしている、間違っても中学生ではない、黒服のせいで疲れて見える大人達ばかりだった。
 ねえ、グリーンピース覚えてる? 
 言われて私は彼女の皿を見た。煮物に入っていたグリーンピースが、茶色い煮汁に塗れて転がっている。ああ、苦手だったね。給食の時はいつも残してたっけ。私がそう言うと彼女は首を振った。私、グリーンピース食べてたみたいなの。汚れた割り箸の先端で突きながら呟く。嫌いだっていったら子どもにびっくりされた。言いながらゆっくりと皿の中をかき回す華奢な手首を、私はもう一度こっそり見た。傷は無い。
 食べなきゃ、って頑張ってたんだろうにね。
 また食べられるようになるんじゃない。
 私が言うと彼女は静かに首を振った。無理じゃないかしら。


 聞いてくれて有り難う、と彼女は笑った。貴方は心理学を勉強したいって言ってたから、こんな話してもきっと分かってくれると思ってたの。成程ね、と私は頷いた。まあ、何かあったら連絡してよ。話くらいは聞くよ。
 高校卒業後、一浪した私が経済学部に入ったことを彼女はそもそも知っていたかどうか。
 今となっては、私にも分からなかった。