つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

おはなしを、あるいはエッセイの定義について(鏡の箱に手を入れる第六回(最終回)・再録)

 

伽鹿舎の主催するWeb文芸誌「片隅」へのエッセイ執筆についてはメールで依頼が来た。テーマや形態は自由、いつも書かれているような感じでお好きなことを……という文面を見て最初に思ったことは連載なんて自分にできるのだろうか、でも、一体何を書けばいいだろう、でもなく、そもそも自分は依頼を受けるのかということでさえもなかった。

あのわたし、エッセイなんて書いたことありましたっけ。

思い当たるのは自分のblogに東北のボランティア・ツアーに行った時のことを書いたことくらいだった。そうか、あれはエッセイなのか。ということはああいうものを念頭に置いてわたしは依頼されたのか。なるほど。

……なるほど? 

そうして依頼を受けて、今に到る。

 

短歌を含めた趣味の創作やBlog、仕事のメールなど色々あるけれど、日々を過ごす中で文章、ことばを書くという行為が、自分は平均より多いほうの人間なのだと思う。

なんでもそうだと思うけれど量をこなしていると技術の巧拙とは別に、自分の傾向めいたものがぼんやり見えてくる。おそらく自分はドキュメンタリーやルポルタージュの文体を持っていない、というのはずいぶん前から自覚していることのひとつだ。具体物の描写を交えた温度や匂いまで感じ取れるような文章、人物や出来事が鮮やかで生々しい文章。ノンフィクション・ライターや記者の書くような、そういうタイプの文章を書くことを、多分わたしは不得手としている。おそらく観察眼というものが無いのだろう。

ついでにいうと第三者に公開する形で日記を書くのも得意ではないのだと思う。Blogなどで日々の出来事を書くことは何度か試みたことがあるけれど、当初は気楽に書いていたはずの「Blogの中のわたし」が実際にキーボードを打っている「わたし」よりだんだん大きくなっていくような感じが息苦しくて、いつもすぐに挫折してしまった。

このエッセイの文体は、そうした過去の挫折を反面教師にしている。幸いにして今のところ不具合は生じていない、と思う。

 

最初に行ったボランティア・ツアーは二〇一二年の初冬、行き先は岩手県南三陸町だった。

南三陸町といえば震災直後の新聞では赤い鉄骨の防災対策庁舎の写真がよく添えられていた印象がある。住民に最期まで避難を呼びかけ亡くなった若い女性職員のエピソードは当時、天使の声などとキャッチコピーをつけられていた。全国的に有名になったこの庁舎をどうするかについては町内でもずいぶん意見が割れていたようだけれど、震災遺構として県有化することが二〇一五年五月に決まっている。

町役場のホームページに公開されている各部署の職員数と報道された死者の数とを見比べると、震災によって役場の各部署の職員はライン丸ごと、いやそれどころか島まるごと、過去の資料も含めすべて喪われたケースが多かっただろうと推測できる。余震の不安もまだ残る、家や家族が大変な状況の人も多いだろう中、前任者も上司もいない、昔の資料を閉じたドッジファイルもメールの履歴も残っていない、当初は電話やパソコンさえ使えない、あるいは複数の部署で共有しなければならない状態で誰かの分も含めていくつも仕事を回していかなければいけない、しかも新しい仕事もある……、そういう状態だったはずだ。そしてだからこそ、国や県に必要なものを求めるための手続きは恐らく大幅に遅れざるをえなかった。

被災地の行政職のメンタルヘルス問題についての報道はここ二年ほどはあまり見た記憶がないものの、要望に対し各地から派遣される応援職員の数は二〇一五年現在でも足りておらず、被災地の職員の仕事が過重な状況にあるのはおそらく変わっていないのではないか、と思う。その一方で補助金などは少しずつ打ち切られていく……というのは、事実にしても悲観的にすぎる印象を与えてしまうだろうか。

ツアー初日、陸前高田駅からヴァンに乗って最初に向かったのも防災対策庁舎だった。乗っていたヴァンが庁舎前の駐車場に停まり、さあ降りましょうかとボランティアのガイドさんに言われた瞬間、車内の空気がぐっと重くなったのを覚えている。わたしはツアーの日程をもちろん把握していたし、お金を払ってツアーに来ることを決めたのは他ならぬ自分だというのにその瞬間、もう逃げられない、お前は絶対に降りるしかないのだと言われた気がした。風が強かったのでガイドさんは声を張り上げ震災当時の状況や庁舎の安全性について説明し、自分の車で来たのだろう人たちがこちらにちらちらと視線を送りながら、けれどやはりその声に耳をそばだてているようだった。

南三陸町は港町で、湾を中心に広がる形になっている。老人ホームや学校は海から遠い高台にあるけれど、基本的には職場や家を含む生活圏は湾のそばに寄り集まった形だ。住宅街の近くには川が流れており、その川の水は湾へ注ぐ。

二〇一一年三月十一日、地震によって生じた津波は川をさかのぼった。細い川へいっせいに流れ込んだ大量の水はすぐに防波堤を越え、家も庁舎も、海を正面に見渡すことのできる高台の老人ホームも、みな波に飲み込まれた。ヴァンの窓からわたしが見た、家の土台の四角い穴が薄茶色の土にぽつぽつと並んでいた一帯は、本当は大きな日本家屋の立ち並ぶ住宅地で、ガイドさんはイタリアのポンペイ遺跡みたいでしょうとさらりと言った。その後向かったボランティアの作業場(というのはつまり、かつて家や蔵があった場所なのだが)からは泥まみれのカセットテープやシャープペンシル、砕けた皿の破片や電源コード、お風呂のタイルや携帯電話などが次々に現れた。

他人の家を勝手に覗くような(「ような」もなにも、実際それに近いことをしている)生々しい後ろめたさと、どこからともなくある目を逸らすなというプレッシャーと。昔確か子ども向けの本で読んだ、あっという間に火山灰に閉じ込められたというポンペイのイメージと、休憩時間、砕けたブロック塀に座って見た遠くで光る海とがみんなばらばらのまま、一体ここで何をどう感じていれば「正しい態度」になるのか、最後まで確信が持てないままツアーは終わった。

 

おはなししてくださいね。

ツアーの最後、そう言われた。土地のものを買ってもらいたいなどとも思いますが、でも何より、ここで体験したことを友達やご家族とお話しして下さいね。似たような言葉はそれから二年後の二〇一四年、高台建設のため発破の音が響き続ける陸前高田へ行った時も言われた。地震はいつ、どこで起こるか分からないですから。だからここで聞いたことを、皆さんも家族や大切な人とお話してくださいね。

当たり前といえば当たり前なのだけど、ボランティア・ツアーでツアー客をガイドし、作業の内容や地域の現状を説明してくれる人たちはみな、長年その土地やその土地の周辺に住んでいる人たちだ。周囲の家や自分の家、家族を流されたという人ももちろんいる。ツアーの予定に合わせ仮設住宅から車で現場にやってくるその人たちは、ツアー客の乗る大型バスやヴァンに乗って地元の現状について説明し時には共に作業をして、最後には手を振ってツアー客を見送る。ツアー客の中には何度も同じ現場に足を運んでいる人もいて、また旅行会社の派遣するコンダクターの中にも東北に多く足を運びたいと希望を出している人はいるので、ひさしぶりだねと彼らが慣れた様子で声を交わしているのをよく見た。

(余談ながら、二〇一五年現在もボランティア・ツアーを開催している旅行会社はかなり限られる。震災から時間が経ったことで現地のニーズも変化し、ツアー内容も観光による支援をメインにするものも出てきた。その一方で立ち入り禁止区域のようやく解除された福島などには新たなボランティアの需要も出てきているようだ)

時に数十人のツアー客に向けて説明するのだろうガイドの人達の話し方は、学校の先生のそれに少し似ている気がする。きっと毎月、あるいは毎週やってくるツアー客や学生ボランティア達に同じ言葉を何度も言っているのだと思う。ここで何があって、今どうなっているか。今できること、やってほしいことは何なのか。国や役所の対応やお金の使い方、復興の在り方について、時に個人的な意見を交えながら、作業の注意事項と共にそれはくり返される。

 

伝えたいことを強調し、大きい声でゆっくり、誰にでも分かるように、シンプルな言葉で。

――でも、それでわたしが「分かる」はずはないのだ。

 

三陸のツアーでわたしの会ったガイドさんは背が低く、大きな頭を短く丸刈りにしている初老の男性で、昔通った小学校の教頭先生に似ているなと、話を聞きながら内心こっそり思っていた。明るい、よく通る声の人だった。

 

おはなししてくださいね。

 

 *

 

……こうして書いているこの文章も、わたしは推敲しながら書いている。

文章を書くことは平均より多い方だと思うから、どうすれば人の印象に残るような文章になるか、そのコツは人より知っている方だと思う。このパラグラフはこちらのパラグラフの後にするか、前にするか。どのエピソード、どのフレーズを、いつどこで出せば分かりやすく印象的になるか。漢字はどこまで開くか。どこで改行を入れるか。情景描写に主体の感情を滲ませ短いフレーズを繰り返すのはいずれも古典的な演出手法だ、と知っている。

劇的なものをより劇的に描き、だれかを糾弾するような文章を書く技術。こちらに不都合な情報はそれとなく隠しつつ読み手の感情に訴え、こちらの望む結論に誘導するための技術、は存在する。自己陶酔しながら無意識に使うか、すべて確信犯でやるかという違いはあっても、技術自体は必ずあって、それは誰でも手に取れる。使えない、思っていたような効果が上がらなかったというなら、それは単に書き手が能力不足で技術を使いこなせなかったというだけだ。

そしてきっとわたしは、そういうことが平均より「出来る」方に分類されるのだろう。

 

三年前、南三陸町に行ったときのことをblogに書こうと思ったとき最初に考えたのは、わたしはそこにどういう「技術」を入れるべきなのかということだった。わたしは友人も多くないし、友人との会話の中でボランティアのことを話題に出す機会もそうそう無いだろうから、誰かに「おはなし」するならむしろネットに流した方が良いだろうと思ったのだけれど、そこではたと止まってしまった。

技術が入ることはしょうがない。日常を記録していても「Blogの中のわたし」が出てくるのだから、それはもう避けようがないことなのだろう。けれどどういう技術を選ぶか、あるいは選ばないかについては意識すればわたし自身で選べる。選べてしまう。

何かを書くとき、誘導したい結論があるならそこから逆算して書いていくのが一番効率がいい。

でもそんな「結論」をわたしは持っていなかったし、特定の誰かを糾弾したいわけでもなかった。それほど何かを知っているわけではなかったし、立派なことをしたわけでもなかった。自分がやっているのは火事場泥棒の物見遊山じゃないかという声は初めてツアーに出発する日の朝、新幹線の中でもずっと聞こえていたし、ツアー後にあっさり霧散することもなかった。

でも、おはなししてくださいね、と言われたのだ。

だからおはなししますね、と思ったのだった。そうだおはなしをしよう、と思った。

生々しい、大変な「現実」を描く力はプロの記者やライターの方が、もっと言えばテレビ映像の方がよほどあって、技術でも知識でも、自分がそれに勝てるとは到底思えなかった。そして戦争の悲惨さを伝えるのに死んだ赤ん坊や倒れた兵士の姿を使うことは確かに有効だけど、世の中には血を見るだけで気分の悪くなる人も少なからずいて、わたし自身もどちらかといえばそちらに分類される方なのだった。だったら他にもそういうひとはいてもおかしくはないはずだ。そう思うことにした。

要するにわたしは普段の、ロボットや天使、しゃべる人形や妖精のでてくる世界の物語を描くのと同じ文体を使ってblogにボランティア・ツアーのことを書いた――と、自分では思っている。伝えたい結論も訴えたい主張も抜きんでた知識も残念ながら持っていないわたしが、それでも自身の体験を通じて震災について何か書こうとするなら、それが一番適切だろうと判断したからだ。そうした文体を使うことによって書けなくなること、伝わらないことは山ほどある。知識の少ない自分なら尚更そうで、書けることは限られてくる。でもそれこそがわたし自身の現実なのだろう、そう思う。

とはいえわたしはロボットや天使、喋る人形や妖精の出てくる世界の物語をありえない嘘っぱちだと思って書いたことは今まで一度だって無いし、およそファンタジーやSFの名作と呼ばれるものの多くは、目の前のこの世界のことを考え抜いた末に書かれているのだと思う。

だからこれは考えること、知ろうとすることを放棄していいという話では決してないのだ。

 

エッセイを、と依頼されて書いたこの連載も、文体こそ多少違うとはいえそのようにして書いたので、これが世間でいうところのエッセイかと言われると正直わたしはちょっと自信が無い。ここに書かせていただいた文章のほとんどは誰かから聞いたわたしでない誰かの話についてのことで、それと同じくらい「わたしのおはなし」だ。おはなししてくださいねと言われた話もあるし、そうでないものもある。大切な事実関係についてはできるかぎり確認しているけれど、最終的にはおはなしとして誰かの中に残ればいいと思って書いた。そういう風に書いた。この文章も。

おはなししてくださいね。

南三陸町に来た何十人ものボランティアの一人として何気なく言われたその言葉に自分がどうしてこうまで引っかかり、応えようと思ったのか、今もわたしは分からないままでいる。

 

いずれにせよこれがおはなしなら、語り手たるわたしが最初に書くべき挨拶はいつだって同じだ。

初めましての方は初めまして、そうでない方はお久し振りです。連載初回に書いたこの挨拶を、わたしはこれまでもいろんな場所で書いてきた。そして最後に書く挨拶もまたしかり。

 

四月から隔月、計六回の連載を読んでいただき有り難うございました。

少しでもお楽しみいただけたなら幸いです。

 

 

(初出・2016/4/20)

4/14の熊本地震から一週間後にweb掲載されたエッセイでした。

文中で言及している「エッセイ」は(恐らく)こちらこちら

挿絵担当の方が妖精とロボット、何より読み聞かせをするおかあさんを描いてくださったのが嬉しかったです。

めばえちゃん、あるいは根無し草の善意について(鏡の箱に手を入れる第1回・再録)

 

突然だが、福島大学には「めばえちゃん」というゆるキャラがいる。

「めばえちゃん」は白い襟がついた明るいきみどりいろのワンピースを着ていて、おまんじゅうみたいなころんと白い顔をしている。鼻と同じ色をした茶色い目は閉じていて、多分笑っているのだと思うけれど、なんだか眠そうな顔のようにも見える。頭に二本、植物の芽のような形の角を生やした「めばえちゃん」は、かつて阿武隈高地の森に棲んでいたという木の妖精(四歳)だ。

わたしが「めばえちゃん」に出会ったのはとあるイベントでのことだった。その日はとても良い天気で、陽射しが空にちかちか白く瞬いていた。屋外のイベントだったので「めばえちゃん」は青空の下おっとりと手を振りながら、盛んにたかれるカメラのフラッシュの中、不思議そうに首を傾げていた。中の人なんていない。

ここまでの記述ですでにお察し頂いている気もするが、わたしは昔からいわゆるキャラクターもの、それもどちらかというと目と鼻だけの、一歩間違えると無表情で怖いと言われそうな造形のキャラクターが好きだ。最近だと映画「ベイマックス」のベイマックスの造形は予告編映像だけでわたしの心を撃ち抜いた……と書けば、大体の傾向はお分かり頂けるだろうか。イベント会場で「めばえちゃん」に出会った私はそんなわけで当然「めばえちゃん」の写真を撮り、携帯の待ち受け画面に設定した。

かわいいでしょう。福島大学の「めばえちゃん」って言うんだよ。飲み会の時、そう言って待ち受け画面を友人に見せると訝しげな顔をされた。

東北出身なの? じゃあ、親戚か知り合いが東北にいるの? 

いないのに、どうしてそんなに関心持ってるの?

 

東京に生まれて東京に育ったので、東北に住んでいたことは一度も無い。オフライン発祥の付き合いの長い関係に限って言えば、東北出身の友人・知人も殆どいないと思う。岩手にも宮城にも福島にも。

……つまり、東北に縁が無ければ、東北に関心を持ってはいけないとでも?

友人の問いに笑ってごまかしながら内心でそう苛立っていたけれど(そもそもわたしは「めばえちゃん」がかわいいから待ち受けにしていたのだ。冒頭の記述でご理解頂いていると思うが、「めばえちゃん」はとてもかわいい)。それと同時に、わたしにも分からない、と呟く自分もいた。

勉強会に行き、本を読む。中々機会は取れないけれどたまにボランティア旅行に行く。名産品を買う。そんな人間はどうやらわたしだけではないようで、東北ボランティアのツアーに行けば沢山の人に合う。

だけどなぜそうしているのか。

震災から四年経った、二〇一五年の今でもよく分からない。

 

三月、四月。

学校と呼ばれるものに行かなくなってからこの時期の、新環境で心機一転というイメージはかつてより遠くなり、ただただ気ぜわしさによる疲労ばかり募るようになった気がするけれど、それでもこの時期に大小様々の節目や変化を迎える人は周囲にちらほらいて、そのたび途方に暮れてしまう。もともとそんなだったのに、二〇一一年の震災以降はそれまでとは別の意味でも変化を意識する時期になった。

あれから何が変わって何が変わらないのか、自分に何が出来るのか。自分は何がしたいのか。春の来るたび考える。

 

震災から数ヶ月後の初夏のことだった。

新入社員の男性が打ち合わせの折にふと、今度の連休にがれき撤去のボランティアに出かけるのだといった。友人数名でヴァンをレンタルして行くらしい。大変なことが起こったから何かしなければという焦燥感がネットにもテレビにも溢れて救援物資や寄付先の情報があちこちで見られた頃、ボランティアに行くなら装備や準備は自己責任で、と口をすっぱくして言われていた頃のことだ。あっけらかんと笑って告げる彼の言葉はひどく眩しかった。

わたしがいわゆる被災地にボランティアへ行ったのはそれから随分後のことだ。かつてテレビで何度も見たがれきや避難所の景色を、だからわたしは直接には見ていない。震災直後に訪れた善意も熱意も行動力もある人たちによってがれきが既に撤去されたその後、剥き出しになった家の土台を覆いつくすように背の高い草が生えている、そんな景色が、私の直接見た「被災地」の景色だ。大変なことが起こったという衝撃だけで体が動くような時期は、恐らくその時点で既に過ぎていた。

 

友人・知人がいるわけではない、具体的に何をこうしたいという目標値があるわけでもない。それでも何か、出来ることはないだろうかと思うこと。

それを善意と呼ぶことが仮に許されるとしても、それは根無し草の善意とでも言うべきものではないか、と心のどこかで疑っている自分がいる。根無し草の善意は根無し草だから、ふらふらとどこへでも行けてしまう。とんでもなく的外れな場所にだって。

テレビなどで見る、被災地と交流を重ねているというボランティアの人たちを見ると、ああこの人たちはちゃんと根付いたのだな、と思う。何度も何度も時間と熱意をもって彼らは根付く場所を作り、そこから芽ぶき、何かを作ろうとしている。でも自分はそうではない。そこまでのものは掛けられていない。

きっと自分の友人が同じことを言ったら、わたしは考えすぎだとその人に言うのだろう。

心のもう半分でそう思いながら、けれど実態とかけ離れたイメージや誤った知識に根付いた善意は、時に悪意より性質が悪いではないか、とも思う。根付くこともしないままつまみ食いのような行為を重ねて、自分だけはそうならないなどと言えるだろうか。どうしてと友人に問われて答えることもろくに出来ないのに、これが手前勝手な思い込みや感傷ではないと、どうして断言できるだろう。

 

何か出来ることはないか、と思うことは根無し草のわたしにとって、あちこちに転がっている思い込みの種を慎重に峻別し続ける作業とイコールだ。葛藤がつらいなら何かを確信してしまうか、あるいはその場から離れるのが一番楽なのだろうけれど、それは出来ない。確信してしまうことは怖い。

具体的に何をこうしたいという目標値があるわけでもないけれど、それでも何か出来ることはないだろうかと思うこと。そこに友人・知人がいるわけではないけれど思いを馳せようとすること。それ自体はありふれたことだし、間違っていないけれど、具体の形にしようとすれば技術や知識は当然に求められてくる。社会学者の開沼博は復興支援の具体の形として「買う・行く・働く」をよくキーワードに挙げているが、では何を買おうか、どこに行こうかと考える時、そこに選択が生じることをわたしはどうしても一瞬は意識してしまう。

自分に何が出来るのか、と考えることは、自分は何を知っているのか、本当に知っているのか、知ろうとしていたのか……つまりは何を知らないのかと、問いかけることでもある。

 

やっぱり東北に行こう、とわたしがはっきり思ったのは震災から一年後の三月十一日のことだった。

二〇一二年三月十一日の東京は晴れていた。桜はまだだったけれど温かくて、カフェの屋外テーブルにはお茶やお菓子を食べる人たちが沢山座っていた。本屋の店頭に並ぶ震災関係の書籍やテレビに映る慰霊の儀式の中継と、それらの景色との対比は現実感が恐ろしく欠けていて、ああこうやって自分も忘れていくのか、とふいに思ったのだった。実際にボランティア・ツアーに参加したのはそれから半年以上後のことだ。

ボランティア・ツアーに参加したり本を読んだりすることであの時の焦燥感が消えるわけではない。何故そうしているか、自分でも納得できるような言葉は今も見つからない。ただ忘れたらあっという間だ、と思う。それだけは確かだ。

わたしの場合は一年後のあのタイミングでようやくそう思って、具体的に体を動かそうと思うことができたのだった。

 

思えば入学式や卒業式といった、春に行われるそういった行事に、わたしはいつも乗り遅れていた。卒業アルバムの交換やお別れ会のある三月にはどうしてみんなそんなに泣いているんだろうとぽかんとしているのに、入学式や歓迎会のある四月になればどうしてみんな新しい環境にそんなに早く馴染んでいけるのだろうと勝手にさびしくなっていた。

みんな同じタイミングで悲しんだり嬉しくなったりして自分だけがそのタイミングからひとり外れている、のではなくて、例え同じものを経験したとしてもそれぞれに異なる速度とやり方で向き合いながら生きていくから、せめて分かりやすい日を決めて、そこではみんな一緒に悲しんだり祝ったりして何かを分け合おうとしているのだろうと、そう気付いたのは結構最近のことだ。だからわたしはずっとそういうタイミングで生きてきてこれからもそうなのだろうし、わたしより早い人も遅い人も当然いるのだろう。

自分に何かができると思い込むことも間違っているし、何かを成さなければいけないと思うのも間違っている。かといって、何もできやしないと思うことも、やはり間違っているのだと思う。

そして今年も三月が来て、その後に四月が来る。

 

機種変更した今も「めばえちゃん」の写真データは残っているので、思い出した時にこっそり眺めている。画面の中からこちらを向いて手を振る「めばえちゃん」はやっぱりかわいいので、また会えたらいいなあ、と思う。

大事なことなので繰り返すけれど、中の人なんてもちろんいない。

 

 

(初出・2015/5/10。再掲にあたり一部修正)

Web文芸誌「片隅」への掲載当時、挿絵を描いてくださったなっつぁんさんが「誰でも感じた経験のある感傷に触れるように」描いた、とコメントされていたのが印象的でした。