つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

読書の夏、あるいは新宿紀伊国屋書店の医学事典について(鏡の箱に手を入れる4・再録)

読書の夏、あるいは新宿紀伊国屋書店の医学事典について

 

(初出・webサイト片隅 2016/08/24掲載。一部加筆修正)

 ※掲載時期と合わせるため、blogの再録順は当初とは異なっています。

 

 

山奥の古式ゆかしい巨大な日本家屋に住んでいる、そんな親戚はいないけれど、まるで映画「サマーウォーズ」のように、お盆と正月には親戚一同が会するのが幼い頃の倣いだった。それなりに大所帯になるので多い時には大きな炊飯器を二台、常時動かし続けることになる。

頭が良くて少し潔癖性なあーちゃんはわたしと同世代で、一緒に遊ぶことが多かった。血縁という意味ではそこまで近くないのだが、彼女の父親は学生時代わたしの祖母宅に下宿していたことがあり、その縁もあって祖母宅にちょくちょく顔を出していたため、他の子より会うことが多かった。

あーちゃんは茶色がかかった髪をお尻の下まで伸ばしていて、体はひょろっと細長い。成績が良くて作文では賞を取ったこともある彼女は親戚の子ども達の中でも抜きんでて「できる子」だった。ぶっきらぼうだけどゲームが強くて、身じろぎもせず画面を睨みボタンを連打する彼女には誰も勝てない。あーちゃんの父親もゲームや漫画が好きで、二人でゲームの攻略方法や連載中の漫画について話しているのはちょっと不思議で羨ましかった。ついでに言えばあーちゃんのお小遣いが多いのは正直かなり羨ましかった。彼女の母方の祖父母は話を聞く限りずいぶん気前の良い人らしく、色々と差を感じることは多かった。

恐らくは生来の神経質さの上に大人の社交性を薄く纏わせたあーちゃんの父親は娘同様、ひょろりと細い手足をしていて、いつも少し背を丸めながら、穏やかな声でわたしの祖母と話していた。

 

あーちゃんの母方の祖母が広島出身だったと思い出したのは夏、井伏鱒二の「黒い雨」を読み終わったときのことだった。

秋になると読書の秋だと言われる。涼しい季節は読書にぴったり、らしい。それはそうかも知れないけれど、でも夏だって読書の季節じゃないかといつも思う。出版社によっては専用のリーフレットやプレゼント企画もやっているし、何より長年の課題図書の記憶のせいか、さあ本を読まなくちゃと誰かがそっと囁いてくる気がするのだ。その年、手に取った「黒い雨」は毎年本屋に平積みにされるのを横目に見つつずっと手を伸ばさないでいた本だった。

二次大戦、原子爆弾投下に関わる本を手に取る時はいつも少しだけ緊張する。「おこりじぞう」や「はだしのゲン」、記録写真などの記憶は目にしてから長い時間を経た今なお強烈で、それが大切なことだと分かっていても、見るのが怖いと思ってしまうのだ。広島に原子爆弾の落ちた後に降った「黒い雨」を浴びた主人公夫婦と彼らと暮らす年若い姪の日々が綴られる「黒い雨」は、しかし読んでみると予想に反しひどく静かな作品だった。水の匂いの漂うラストシーンを反芻しながらわたしはそういえば、と母親に言ったのだった。あーちゃんの母方のお祖母ちゃん、広島出身だったね。

それは昔、彼女の書いた作文に書かれていたのだった。広島に落とされた原子爆弾であーちゃんの母方の祖母が家族や友人をたくさん亡くしたことを書いたその作文は大会で賞を取ったので親戚一同に回覧され、彼女は大人達からたいそう褒めそやされた。わたしの言葉に母親は頷き、ふと思い出したようにこう続けた。そういえばあーちゃんの母方のお祖母様は原爆浴びてらっしゃるから、あーちゃんのご両親が結婚される時、お祖母ちゃんはちょっと心配してたのよ。

ちょっと「心配」。

言葉の意味を理解するのに、その時わたしは数秒かかったと思う。ええとつまり遺伝とか、そういう。恐る恐る尋ねたわたしに母親はそうそうとあっさり頷いた。

 

自分の祖母がどんな人かと問われたら、几帳面な人、とわたしは応えるだろう。あまりに家の中がきちんと片づいているので、これじゃあ泥棒が大助かりじゃないかと昔誰かが苦言していた覚えがある。幼いわたしは彼女の通帳や印鑑の場所を察することはできなかったけれど、彼女の家の、アンティーク調の棚に置かれた電話のそばにドナー団体の電話番号が書かれた小さなメモが貼られているのは知っていた。葬儀会社やお寺の電話番号と一緒に書かれた手書きのそれはいつ自分が死んでも、遺された人がなすべき手続きに困らないようにという、彼女なりの配慮なのだった。二十代で病に冒された彼女はそれ以来ずっと、いつ自分が死んでも家族が困らないようにとあらゆる方面に配慮しながら暮らし続けていた。

病名を、私は覚えていない。カタカナだらけの長い病名は、要するに特殊な癌みたいなものだと昔説明された。原因不明の致死性の腫瘍。

腫瘍について、当初医者は彼女に伝えようとしなかったという。インフォームド・コンセントなんて概念はまだ存在しない、医者の指示には黙って従うのが当然で、癌のような病気はむしろ患者に告知しないのが優しさだと思われていた時代のことだ。虫の勘というやつだろうか、しかし祖母は医者の態度がどうもおかしいと思ったらしい。診察中、ふと医者が席を外した隙に彼女は机のカルテをこっそり覗き、書かれた文字列を頭の中に焼き付けた。その後、まだ幼かった子どもを連れて行った新宿紀伊國屋書店医学書コーナーの一番大きな医学事典でカルテに書かれた文字列を探し、己の病を知った。

医者に告知されなかった彼女の病気を家族全員がすぐに信じたわけではなかったらしいが、結論から言えば祖母は腫瘍で死ぬことはなかった。医者が彼女に腫瘍のことをきちんと告げたのは、彼女が腫瘍に侵されてからずっとずっと後のことだった。

 

祖母の来歴について長々と書いたのは、彼女があーちゃんの両親の結婚に反対したと聞いたとき、最初に思い出したのがそれだったからだ。わたしにとって祖母は幼い頃から極めて几帳面で、そして合理的な人だった。いつ自分が死んでも家族が困らないように葬儀会社のメモを貼る彼女を、多分人によっては冷たいと評するのだろう。

ちょっと心身に不調が出るだけで本屋店頭の自己啓発本やら占いやら健康法の本をぼんやり眺めてしまう自分が同じ立場に置かれたとき、祖母と同じ事ができるだろうかと時折思う。医者のカルテをこっそり盗み見ることも含めて。

現在、被爆二世に遺伝的影響はないというのが定説だ。

原子爆弾、ないしはそれによる被爆について。放射線治療も身近だった筈の彼女は一体どんなイメージを抱いていたのだろう。

 

ある分野では冷静で論理的な判断をする人が、別の分野では強い偏見を見せる。そんなことは誰にでもある、我が身に置き換えればすぐに分かることなのに、他人のそれにはなぜか、いつも衝撃を受けてしまう。時には相手が別の人間であるかのように見えて、なぜ、と傲慢にも思ってしまう。裏切られたとさえ思う。

その一方で、そもそも「論理的」と自分が評していた誰かの属性や行動は、もしかしてむしろ「共感できる」「自分の信条に合う」と呼ぶべきものだったのではないかと思うこともある。

自分の意見を強化するために近しい意見を持つ誰か、自分と同じものが好きな誰かのことばを、内容もきちんと吟味しないまま「論理的」と呼んでいただけだったのではないのか。相手がどんな考えを持っているか知らぬまま、きっと自分と同じだろうと思い込んでいたのではないのか。そんなことを言う人だったのか酷い酷いと誰かのことばに憤る、しかし本当に「論理的」でないのはむしろ自分だったのではないか、と。

 

(でもそれなら、誰かのことばに共感したわたしの感情は間違っていたのだろうか)

(いや、「間違った感情」なんてそんな言葉自体が間違っているし、感情も論理もどちらもわたしのものだ)

(だからこそ、くるしい)

 

 *

 

二〇一一年の震災時、典型的な帰宅難民の一人となったわたしは夜半、ようやく動き出した電車に乗り友人の家に泊めてもらうことになった。充電が切れるのが怖くて携帯電話はほとんど使っておらず、職場のテレビは電源を切られたままだったので、Twitterのタイムラインを覗いたのは翌朝のことだった。

『コンビナートが燃えている。』

久しぶりに覗いたTwitterのタイムラインの中、最初に目に飛び込んできたのはそれだった。赤い炎に照らされ影になった工場の煙突。その後にいくつもいくつも、リツイートされた誰かの投稿が流れてくる。原子力発電所にトラブルが生じたらしい。メルトダウン。有毒ガスが。黒い雨が降っている。そんな言葉が幾つも見えた。

(くろい、あめ)

あれは間違いみたいだよ、と。

掛けられた友人の声にほっとしたのと同時に、流れ込んでくる言葉や映像にそのままパニックに陥った自分を恥じた。かつて小説で読んだあれが今ここに再現されるのかと、そんなことを一瞬でも反射的に考えた自分を。

ちょっと不調になるだけで自己啓発本やら占いやら健康法の本を眺めてしまう自分は幸い普段は気付かずに済んでいるだけで、本当はいろいろなものに狭量で思い込みの激しい、感情的な人間なのだと思う。

でもそれなら論理的、というのはどういうことだろう。

 

学生時代、授業でフィアネス・ゲージの事例を教えられた。アメリカのダイナマイト職人だったゲージは爆発事故に巻き込まれ、下顎から頭まで鉄の棒が貫通する。奇跡的に一命を取りとめ、記憶や知性は事故前と変わらなかったにも関わらず、前頭葉の損傷により彼の性格と判断力は著しく変化した。判断力についていえば極めて優柔不断となり、行動プランを立てることができなくなった。

フィアネス・ゲージの事例から推論されることは幾つかあるが、当時のわたしが一番印象的だったのは、一般に論理的判断と呼ばれるもののベースにあるのは感情だということだった。感情を司る大脳辺縁系に機能障害を生じた人間は、複数の選択肢の中からひとつを選ぶという行為が出来なくなる。本当に論理だけで思考すれば、いかなる選択肢も可能性として「完全にゼロではない」からだ。フィアネス・ゲージの判断力はそれゆえに低下した(本によっては、彼は感情を失ったと書かれることもある)。

わたしたちは感情に論理を与える。感情抜きに、わたしたちは何の情報も取捨選択できない。正体の分からないものに対してはなおさらだ。分からないものについて、持っている知識の範囲で無理矢理にでも整合性を付けようとするのは感情がそれを求めるからだ。科学実験ならば仮説と検証の膨大な積み重ねにより限りなく「正しい結論」に近い仮説を打ち立てていくことも出来るが、日常生活でそれは出来ない。だから感情に追い立てられるまま、大雑把な論理で判断しようとする。

わたし達は感情から逃げられない。

逆説的だけど、日常生活の中で論理的に振る舞うためには、自分が感情を持った存在であるということをちゃんと認めていることが必要なのかも知れない。

 

自分の体が何か恐ろしいものに侵されているのではないかという不安を前に、わたしの祖母が選択したのは新宿の紀伊國屋書店であり、医学辞典だった。端的に言えば、彼女が求めたのは知識であり、論理だった。

彼女のあーちゃんの両親への対応をわたしは正しいと思わない。率直に言えばそれを聞いた時、わたしはかなりショックだった。けれど幼い子どもを抱え誰にも相談できずひとり不安を抱えていただろう二十代の彼女が新宿紀伊國屋書店の医学辞典に手を伸ばした、そのことの強さを思う。

医学辞典や科学の理論は誰かの不安や偏見を消しゴムのように消しはしないが、正体の分からないものを恐れる感情に手がかりを与えることは出来る。それまで踏みにじっていた他者の感情に思いを馳せる切っ掛けになることだってあるだろう。

感情を持った人間が先人の仮説と検証の膨大な積み重ねに手を伸ばし思考することで、初めて実現されるものがきっとあると思いたいのだ。

 

被爆二世がいるってことは被爆した人と結婚した人がいるってことでしょう? だったら今更関係ないじゃない。

結婚を「心配」されたあーちゃんのお父さんはわたしの祖母にそう言ったらしい。

聞いたときなるほど、と思った。冷静に考えてみれば答えになっているようで全くなっていない、でもなんだか聞いた瞬間、妙に納得してしまったのだった。

わたしはその場にいたわけではもちろんなく、一体どういう状況でどんな風に彼がそれを言ったのか知らない。それでもわたしの想像の中、学者気質のあーちゃんのお父さんは祖母宅の小さいテーブルにいつも通り少し背を丸めて座りながら、その言葉をいつも通り飄々と、当たり前のように即座に祖母へ返す。

多分こういうことは即座に言うか言わないかで意味合いが大きく変わってしまう性質のもので、その結果取り返しの付かなくなったことだって世の中には沢山あるだろう。彼は幸い、そうはならなかった。

練習も訓練も出来ないその「即座」のためには知識と思考が絶対に必要だ、と思う。でも知識と思考だけでは足りない気もする。

だとしたら、一体何が必要なのだろう。

 

井伏鱒二の「黒い雨」を読んだあの夏からそれなりに時間が経って、私もあーちゃんもすっかり大人になった。

大人になったあーちゃんは腰まで長く伸ばしていた髪をボブカットにして、今もひょろんとした手足をしている。ゲームや漫画が好きなのは昔も今も変わらないけれど、ぶっきらぼうな言葉遣いはかつてに比べ柔らかさを纏うようになった。仕事はばりばりこなしているようで、子ども達の中で「できる子」なのはきっと今も変わらない。

 

じゃあきっと、わたしはその死んだ人たちの生まれ変わりなんだね。

かつて広島の祖母にそう告げたという、八月六日生まれのあーちゃんが自分の両親の結婚にまつわるエピソードについて知っているか、わたしは知らない。