つきのこども/あぶく。

おはなしにならないことごと。

題詠blog2012感想

初参加が無事終わったので、記録として。

基本スペック。元々短歌は読むのは嫌いではなかったのですが(かんたん短歌blogはよく覗いていました。その後、文学フリマの詩歌コーナーを友人に紹介されて色々見て回るように)、1月に好きな劇団が解散したのを切っ掛けに何故か今までに無い勢いで短歌が出てきました。twitterというツールが登場していたのも大きいと思います。
基本的に新しい分野に入っていく時はそれがいかなるジャンルであれ、良いものに沢山触れること、沢山作ること、が最初は大切だと思ってます。というわけで短歌の本も買いつつ、沢山作るのにはどうしようか、と思って思いついたのが題詠blogへの参加でした。

題詠blog2012

一応説明しますと上記blogで百のお題が示されており、それぞれのお題に沿って作った短歌をトラックバックしていくというものです。最初は一日一首でやっていたのですが4月辺り(半分を越えた辺り)から息切れ気味になり、ようやくこの度完走となった次第です。
やっていくうちに、ネタが思いつかない、というのもあるのですが、そもそも短歌って何だっけ、詩って何だっけ、というゲシュタルト崩壊のような混乱が出てきて、それでますます書けなくなった気がします。もしかしたら上手くやろうとする欲のせいかも知れませんが。この辺りの混乱はまだちょっと抜け切れていません。
何となくですがこのあたりはむしろ、人の作品をちゃんと「読む」ことから出口が見えて来る気がしています。現状だと本を読むようにしか歌集を読めないのですが、多分これはちょっと違うのでしょう。

ちなみに不肖、小説とかお話を書いてる身からしますと、短歌は「呪」あるいは「呪歌」であるなあ、というのが書き出した当初の結構強い印象としてありました。漫画なんかで神社の息子とかがお化けにお札を放つ、みたいなシーンがありますが、まさしくあんなことをやってる感じ。
対する小説(評論も?)は、巨大な魔法陣を描いているイメージでしょうか。物凄い緻密で巨大な、一文字でも間違えると呼び出したいものは現れないもの。もっともこれはどちらかというと長編小説の話で、短編小説だとこれはこれでまたちょっと違うかもしれませんが……。
あるいは短歌は、指ぱっちんして炎を呼び出す感じかも知れません。ただしちゃんと集中しきってないと炎じゃなくて煙がぷすぷす出るだけなので、晴れてても無能呼ばわりされる感じで。
私は何を言っているのでしょうか。


改めて自分の100首を読み返してみると、言葉の取り合わせが合ってない、描写のピントが甘くてイメージを描けてないものが多いな、という印象です。恥ずかしながらそもそも短歌になりきれてない、と思われるものも結構あるなと。

とりあえずこのあたりなら及第点かな、と思うのを以下に5つ上げておきます。
上記の通り現状ではゲシュタルト崩壊起こしてるので今の判断が正しいかも分からないのですが、それも含めて記録とします。



果ての無い丸い星にもおしまいは必ずあると言う地平線     (04:果)
この道が滝へ続いてますように君の周りを公転せぬよう     (33:滝)
企みは全て成功一斉に開いた花が呵々と大笑          (61:企)
本当は第一志望じゃなかったにんげんをまだ止めずにいます   (64:志)
本当に激しく燃える火は青いあれは不知火、人の魂       (98:激)