2015年4月19日発行の百合詞華集「きみとダンスを」(紙媒体は頒布終了、現在は電子書籍を配信中)寄稿作品。中山明さんのオンライン歌集ラスト・トレインの一首の解凍小説を書きました。ちなみに本では一番最後に掲載されていました。実はちょっとした仕掛けを入れたりしてるのですが、結構気づいて頂けたり、ご感想を頂けて嬉しかった記憶があります。
短歌、俳句、イラスト、小説の合計18名によるアンソロジーでした。
主催の柳川麻衣さま、有難うございました。
クリスマスについて王国で一番詳しいのは多分カトンだった。
ベアが歌いだすのが合図なんだって。
棚の奥で眠るわたしを起こそうと、耳元でカトンは囁く。八月になると王国にはベアが産まれる。毎年毎年生まれるのに、服や顔はその年ごとに違うらしい。どこからか現れて国中を埋め尽くし、やがてずらりと並んで歌いだす。そうなったらあいつが来るのよ。
「あいつってだれ?」
「決まってるじゃない、サンタクロースよ!」
言って、カトンはぷすんと鼻を鳴らした。あのじじい、自分がしょってる白い袋に誰を入れてやろうか、こっそり物色を始めるんだわ。
「ふうん」
ケープのリボンを直しながら、わたしはぼんやり相づちを打った。ちょうど胸辺りにある赤いリボンは何度結び直してもいつの間にかねじれ、ほどけてしまうのだ。もたもたした手の動きに気付いたのだろう、カトンは溜息をつきながらわたしの方へ手を伸ばした。
「あんたみたいに小さいうさぎ、両耳捕まれて袋にぽいって放り込まれちゃうんだから」
「なんだかマグレガ―さんみたいね」
「マグレガ―さんなんかよりもっとずっと怖いのよ! ――ほら、できた」
本当にあんたってなんも分かってない。
後ろ足でぽすぽす床を蹴りながらカトンがうなるそのたびに、茶色い毛並みの上を鳥たちの影が走っていく。足音を立てながら進むカトンの後ろを、わたしは必死で追いかけた。自分だって小さいうさぎのくせに。そう思ったけれど、それはやっぱり言わないでおくことにした。だってわたしも小さいうさぎなのだ。王国は明るくて誰も彼もが陽気だったけれど、わたしはなぜだかいつも胸の奥が不安でいっぱいで、カトンに起こされた時以外は棚の奥でずっと眠っていた。
「あれは怖い物ではないんだよ」
「ほんとう?」
遠い鐘のような声がして顔を上げると、頭上で荷札がぶらんと揺れているのが見えた。
Please look after this bear.(どうぞこのくまのめんどうをみてやってください。)
Thank you.(おたのみします。)
そう書かれた茶色い荷札の向こうへ首を仰向けると、焦げ茶の毛に埋もれた黒い鼻が見えてくる。そこから更に顔を上げると赤いつば広のフェルト帽の下、黒いガラスの目がこちらをじっと見おろしていた。
「嘘だと思うならトーマスに聞いてごらん。あの子は機関車だから、遠くの話もきっとよく知ってるよ」
「トーマスなんて」
言ってカトンは首を振った。あんなの、汽笛がうるさいだけの馬鹿じゃない。
「パディントンも遠くに行ったことがあるんでしょう?」
「ペルーから来たんだよ」
わたしの声にパディントンはゆっくり頷いた。来たんだよ、という言葉はむしろ、きたんだよーう、というふうに聞こえた。ベビーカーに乗ったニンゲンよりも大きいパディントンに比べたら、わたしやカトンはとても小さいのだ。
「ペルーはとても遠いんでしょう、旅はどんなだった?」
「ペルーはとっても遠いんだ。ぼくのおばあさんが熊の病院に入ったから、ロンドンに行くことになったんだよ」
「ふうん」
「ねえ、マーマレード、持ってない?」
「ううん」
「そっかあ、残念だなあ」
「モプシー、だめよ」
ぼわんと響く鐘のような声の中、カトンがそっと囁いた。パディントンはね、ペルーについては知らないの。
「もう少ししたらサンタクロースが来るわ。――あたしはベアから聞いたのよ」
「うん、サンタクロースが来るよ」
パディントンが頷く。僕たち、どこのおうちに行くんだろうね。
「どこかのおうちなんてまっぴらよ!」
苺とショートブレッドの道をげしげしと蹴散らすように進みながら、そう言ってカトンは頬を膨らませた。あたし、そんなところ絶対行かない。
「でもわたしたちそのために産まれたんじゃない?」
早足で進むカトンの背を追い掛けながら言うと、カトンはくるりと振り向いた。それ、誰が言ったの?
「だれって」
「にんじんもキャベツもなにも食べなくたってあたしは生きていけるのに、どうしてだれかのおうちに行ってめんどうをみてもらわないといけないの? 誰がそう決めたの?」
「ええ、と」
……だれだっけ。
考えている間も、カトンはずんずん先を行く。もう、と歩き出そうとして、壁に飾られているイチゴと生クリームの間にいつの間にか、ホリデイと書かれた金のプレートが飾られているのにわたしは気付いた。サンタクロースのための道しるべ。
「でもピーターたちはサンタクロースが来るの、楽しみにしてたし」
「ピーターはばかだもの」
「……弟のことばかって言うの、よくないと思う」
「モプシーはいい子だもんね」
ケープのリボンをぐいと引っ張りながらそう言ってカトンがふふんと笑ったので、引っ張られたままうんとわたしはうなずいた。いい子なのは別に悪いことじゃない、はずだ。
「青いチョッキ着ていい気になってるだけよ」
「だってピーターだもの」
「服を脱いだらピーターだってあたし達と大して変わらないわよ」
「そうかなあ」
「そうよ。耳の角度も毛並みも変わらないのに、青いチョッキを着てる子だけが主役だなんて理不尽よ」
あたしだって青いチョッキくらい着れるのに。
フード付きの赤いケープを着たカトンがそう言ってくるんと回ればケープの裾はふわりと広がり、白い裏地を覗かせる。うん、カトンは似合うと思う。わたしがそう言うとカトンは嬉しそうに鼻をうごめかせた。
男の子のピーター・ラビットには青いチョッキ、おんなの子のうさぎ達には赤いケープを。青いチョッキを着たピーターはいつもわたし達より目立つところに座っていて、ニンゲンたちを待っている。
「ニンゲンの子どもといっぱい遊ぶって、ピーターたち楽しみにしてるよ」
「あたしは遊びたくないけど?」
鼻で笑うようなぱさぱさした声にわたしがだまりこむとふいにあ、とカトンが声を上げた。
「もう、またほどけてる」
呟きと共に伸びる腕をわたしはそのまま受け入れた。モプシー、あんたって本当にだめな子ね。引っ張ったのはカトンなのに、溜息まじりの声が胸のあたりで響く。
「……クリスマスなんて大嫌い」
「うん」
だから絶対逃げてやるんだと、カトンはずっと言っていた。わたしが棚の奥で丸くなって眠っている間もカトンは王国の外まで出かけて、素敵な出口をいつだって探しているのだという。
でもどこへ?
好きなところへ。
わたしが聞くたび、カトンは笑ってそう言った。ねえモプシー、あんた行きたいところ無いの? 口ごもるわたしの顔を覗き込み、カトンは言う。どこも? 何も? 真っ黒なガラスの目がちりりと光って、わたしは毛皮が全部濡れたみたいな気持ちになる。途方に暮れたわたしにカトンは何よ、と不満げに跳ねた。
「あたしたち、全部ふわふわしてるからナイフも何も怖くないでしょ」
ニンゲンの子どもと一緒にベビーカーに乗って散歩したのはついちょっと前の筈なのに、久し振りに出た外はあらゆるもののスピードが速くて目が回りそうになる。そもそも夜の街に出たことなんて今まで無かった。ニンゲンの子どもは夜に外出しない。
道は明かりでまだらに濡れている。道の隅の、押し込められたように重なったしわくちゃのビニール袋や転がっているガラス瓶は通り過ぎる車のライトに照らされて、時折ぬるりと生き物のように光る。王国と違ってニンゲン用の道は汚くて冷たいものばかりだ。歩き疲れて顔を上げると曇った、窓の向こうにベアがぼんやり座っているのが見えた。茶色い毛並みに赤いチョッキは、カトンがいなくなったあのクリスマスの年に産まれたベアの印だ。ベア。小さい声でわたしは呼んだ。
ベアは、王国の王様だ。
クリスマスのため産まれた彼らは王国の中でもいつも特別な場所に座っていた。真っ黒いボタンの目が照明を丁度よく反射するように、だけどちゃんとお行儀よく座って、ねえ一緒におうちへ帰ろうよと、ニンゲン達に向かってコーラスするのだ。王国は広くて、小さいうさぎの小さい足では端から端まで歩くだけでへとへとになったけれど、ベアは王国のどこにでもいた。
本当は、王国の上や下にもたくさんの国があるのだとカトンはよく言っていた。その外にも国があって、ニンゲンやぬいぐるみや、それ以外のものがたくさん住んでいるのだと。
ねえモプシー、ここは大きなデパートなのよ。ハロッズっていうの。
今でこそカトンの言っていた言葉の意味が分かるけれど、当時のわたしには全然分からなかった。わたしに気付いたのだろう、こちらを見てベアはゆっくり首を傾げた。
「……捨てられたの?」
いいえ、とわたしは言った。わたし、旅に出るの。だから旅行会社に行くの。
「りょこうがいしゃ?」
首を傾げたベアにわたしは頷いた。
砂嵐のような音ばかり立てるテレビの中に見慣れた姿を見付けたのは一瞬のことだった。カトン、そう思って、いいやちがうと、次の瞬間に気付いた。見てください、可愛いでしょう? テレビからは女の人の声が水のように低く流れていた。
……に旅に出てもらい、旅行記録を作成します。こちらが実際のアルバムです。観光スポットではこのように写真撮影も行われます。利用者は入院中の方などで、自分の代りに……。
カトン、ではないのに。
声と共に画面で揺れる、ピーターやパディントンに似た子の集まった写真から、わたしは目を逸らすことができなかった。
「ニンゲンはどうするの」
「知らない」
言ってから、カトンみたいな言い方だと自分でも思った。ああそうか、分かった。しばらく黙っていたベアがようやく呟いた。君、カトンテールを探してた子だろう。
「王国でぼくらの誰かが見ていたよ」
言ってベアは首を傾げた。カトンテールを探しに行くの? 言葉にわたしも首を傾げた。ベアのそれと同じ向き、同じ角度に首を傾げれば、視界の中のベアはわたしの目を真っ直ぐ見詰めている。そうね、とわたしは答えた。
「カトンと二人で汽車に乗って、マーマレードのサンドイッチを食べて、ずっと二人で旅をしたら、きっととっても素敵だと思うわ」
「うん、カトンテールだろ」
「カトンよ。あたしだけのカトンテールよ」
「君だけのカトンテールなんていないよ」
ぼくたちはみんな工場で生まれるんだから。
知ってるだろ、と溜息交じりにベアは言った。同じ型で布を断たれて縫い合わされるから、みんな同じ顔をして同じ服を着てるんだ。だからみんなでいっぴきだしいっぴきはみんななんだよ。わからない、とわたしは首を振った。
「その子を探してどうするんだい」
すうと低い声にわたしは顔をまっすぐにした。つめたいつめたい声だった。
「君のことなんかもう忘れてるかもしれないのに」
パッパー、と後ろでクラクションの音がする。その間にも足の裏から石畳の冷たい感触がじわじわと這い上がってきて、わたしは顔をしかめた。知ってる。そういうとベアは呆れたように鼻を鳴らした。赤いチョッキの金のボタンがきらりと光る。
「もしかして君、ばかなのかい?」
「ばかで結構。それで、駅はどっち」
言い返しながらまるでカトンみたいな言い方だともう一度思った。
わたしが言い返すとは思っていなかったのだろう、ベアはぐっと黙り込んだ。ねえ、駅はどっち。もう一度言うとベアはしぶしぶ口を開いた。この方向で合ってるよ。
「まっすぐ行って、大きなスーパーを右に曲がるんだ」
「そう」
ありがとう。ぺこりと頭を下げるとベアはじっとこちらを見ているようだった。
「……ねえ、カトンテールを見かけたら君に伝えようか」
「いいの?」
驚いて聞き返すと、ベアはこっくり頷いた。ぼく達はみんなでいっぴきだし、いっぴきはみんなだからね。ありがとう、そう言うと、ベアのガラスの目に湯気のような何かがふわりとゆらめくのが見えた。怒っているような、あるいはとても、困っているような。
「君、やっぱり変だよ」
「わたし変じゃない」
「変だよ」
変だし、ばかだよ。そう言ったきり、ベアはぷすんと黙り込んだ。
カトンがいなくなったのがいつか、わたしは知らない。棚の奥でずっとずっと眠って、ある日ふと一人で目を覚ましたら、カトンはいなくなっていた。
ねえ、カトンはどこ?
どのカトンテール?
わたし達みんなカトンテールよ?
わたしが尋ねると「カトンテール」達は口々に言った。みんなでお行儀よくずらりと座って、わたしの言葉に不思議そうに、同じ角度で首を傾げていた。いないならニンゲンのところに行ったのよ。だってみんなそうだもの。とっても素敵。
あんた達じゃない、あたしのカトンよ。
わたし達みんなカトンテールよ?
あの子あたしだけのカトンテールよ!
あたしだけの、なんて言えるほど立派なお話をあんたどれだけ持ってるの?
黙り込んだわたしに「カトンテール」達はきゃらきゃらと笑った。ずっと棚の奥にいたくせに。モプシー、あんたはやっぱりだめな子ね。輪の向こうで、誰かが笑う。尻尾もすっかり濡れちゃって。カトンと同じ口調で告げられたそれが悲しくて、棚の奥でわたしはしくしく泣いた。
きっとあの子はサンタクロースに浚われたんだ。真っ白い袋に放り込まれたらわたし達みんな、パイの中身みたいにいっしょくたにすり潰されてしまう。
ねえそうでしょう?
ようやく棚から這い出したわたしが掠れた声で尋ねると、パディントンは困ったように首を傾げた。それは、ちがうんじゃないかなあ。あの子はずっとここにはいたくないって言ってたよ。
「だから外へ出たがってたんでしょう?」
「違うよ、ニンゲンの家に行きたかったんだよ」
「うそ」
「本当だよ。君が眠っているときはぼく、あの子とよく話したもの」
「だってカトンはいつだって、素敵な出口を探してたのよ」
「うん、だから優しくしてくれる素敵なニンゲンを探してたんだろう?」
「……うそ」
うろたえながらわたしは呟いた。クリスマスなんてだいきらい。何度も聞いたカトンの声が頭の中にがんがんとこだまする。嘘じゃないよ、とパディントンが言い返した。うそじゃなーいよーう、と声は響いた。
「ぼく、いっぱいまちがえるけど嘘は言わないんだ」
Please look after this bear.(どうぞこのくまのめんどうをみてやってください。)
Thank you.(おたのみします。)
頭上で揺れている荷札をわたしはじっと見上げた。わたしの耳より大きな荷札はうっすらと、四辺を灰色の埃に縁どられている。そうだよ、とパディントンは頷いた。
「誰の所へも行けないのがあの子は怖かったんだ。みんなそうだよ。僕みたいに、ずっとここにいるのは嫌なんだ」
君もそうじゃないの。言われてわたしは首を振った。よく、分からなかった。そうして俯けば視界にはいつも通り、ねじれたリボンが目に入る。早くなおさなくちゃ、そう思いながら、腕は動かないままだった。溜息交じりに直してくれた腕の持ち主はもうここにはいない。
「ここにいるのは怖いことなの」
「怖いのかなあ。ずっとここにいるけど、ぼく、あまり変わらないよ」
「わたし達、誰かにめんどうをみてもらわなきゃいけないの?」
「どうなんだろう」
「キャベツもにんじんも何も食べなくてもそうなの?」
「どうなのかなあ」
赤い帽子を揺らしてパディントンは首を傾げた。まあここにマーマレードが無いのは、確かだけど。
「わからないや。だってぼく、ニンゲンの家に住んだこと無いもの」
パディントンは今、どうしているんだろう。
いやな匂いのする水たまりを避けながら、わたしはまっすぐ歩き続ける。
ベビーカーに乗っていたニンゲンの子どもがすっかり大きくなって家を出て、そのあともわたしはずっとニンゲンの家に住んでいたけれど、記憶の中のあの子とわたしとそれで何が違うのか、今もわたしにはわからない。王国の真ん中で椅子に座っていたパディントンではなく、棚の奥で眠っていたわたしが両耳を掴まれ袋に放り込まれて、ニンゲンの家に行くことになった理由も。
ずっと、嘘つき、と言いたいのだと思っていた。
嘘つきのカトン。いつの間にかいなくなったカトン。わたしだけじゃなくてパディントンとも話していたカトン。でもそうじゃなかったんだと、砂嵐の中に懐かしい影を見付けた時に気付いた。
あなたがわたしをとっくの昔に忘れていても、再会は永遠に来なくても。これからわたしがずっと旅を続けて汽車の中、いつかマーマレードのサンドイッチをひとりで食べることになっても、それでも、それでも、やっぱりそれは変わらないんだろう。
あなたのことが好きだった。
だからわたしは旅に出たのだ。素敵な出口を探すために。
冷たいアスファルトが信号の赤に照らされる中、わたしはくるんと回った。回る動きに連れてもう半分もげかけている左腕が、風にぶらりと揺れて落ちる。ニンゲンの子どもにずいぶん振り回されたせいで、繋がっているのはもう糸数本分だけだ。風になびく色褪せたケープのリボンをぐいと引っ張ってほどき、わたしはふふんと笑った。
今なら青いチョッキだって似合う気がする。
だってわたしは小さいうさぎだけど、とても強いうさぎだからだ。
*
傷つけて生きる勇気のもてるまでそのままにしておく胸のリボンも 中山明
文中の英文及びその訳は「くまのパディントン(A bear called Paddington)」(原作:マイケル・ボンド、翻訳:松岡享子)による。